〈平成26年福島地裁判決について〉
本論説は福島地裁平成26年9月30日判決(判例時報2240号119頁)を取り上げている。この事件は、裁判員として強盗殺人被告事件に関与し急性ストレス障害になった女性が提起した国家賠償請求訴訟に関するものであり、私外1名が一審原告訴訟代理人についた。柳瀬氏は、この国賠事件判決が「制度の憲法適合性等をめぐって丁寧な判示が行われており、十分な考察に値する。」と評しながら、紙幅の制限もあってか判決の判示内容の紹介に留まり、十分な考察をした痕跡はない。
私は、この福島地裁判決については既に論評した(拙著60頁以下)。柳瀬氏には、その私の論評とこの福島地裁判決について「十分な考察」をしてほしかった。そうすれば、裁判員制度そのもの、裁判員の職務の苦役性の問題がより鮮やかに浮かび上がったであろう。
〈おわりに〉
柳瀬氏の引用する参考文献は実に多岐、多数にのぼっており、学者とはこういうものかと感心する。しかし、私の拙い論考を取り上げていただけなかったことはちょっぴり寂しい思いがしたし、柳瀬氏本人の明確な結論を聞くことができなかったことも残念であった。学説として多様な意見のあることを紹介して、それを社会・学会への問題の提起として多くの人々の考察の対象にしてもらうことも学者としては大切な役目なのかも知れないが、職業柄これまで長く勝ち負けの結着を経験してきた私としては、どうしても物足りなさを感ぜずにはおられなかった。
しかし、それは、本説では取り上げられなかったが、同氏が持論とされる共和主義的憲法観に基づく討議民主主義理論による裁判員制度の意義(法律時報2009年1月号等)を認めているからであろうとは思われる。緑大輔一橋大学准教授も同様の立場をとる(法律時報77巻4号40頁、当時広島修道大助教授)。しかし、その点については、裁判員制度に肯定的な新屋達之教授でさえ種々疑問点を提示していること(大宮ローレビュー第9号2013年)、その疑問点は一々尤もと解されること、基本的に刑事裁判というものが市民の参加による公共的討議の場としてふさわしいという考えそのものに疑問があることなどから、とても支持し得ないものであることをここに指摘する。
柳瀬氏は、本論説の論調としては、裁判員の職務の苦役性自体については肯定的、つまり苦役だと受け止められるようである。私は、義務化された裁判員の職務が苦役以外の何ものでもないことは、制度の運用の実情がどうあれ、否定し得ないと考えるものであり、その点では柳瀬氏に同調できる。しかし、上述のように、討議民主主義理論によってその苦役を国民に課し得るとの考えには到底同調できない。
最近、裁判員制度について論じられることはめっきり少なくなった。既成のことであり、今更論じる価値はないと思われているのかも知れない。しかし、立案、立法当時指摘された問題はなんら解決されていないし、むしろ、参加する国民の減少により制度は危機的な状況にあると言ってよく、定着したなどとはとても言える状況ではない。そのような状況の中で、柳瀬氏が裁判員制度問題を引き続き取り上げ論じられていることについては敬意を表したい。