司法ウオッチ<開かれた司法と市民のための言論サイト>

 

〈はじめに〉

 
 平成26年7月24日に最高裁第一小法廷が言い渡した傷害致死被告事件判決(平成25年(あ)第689号、以下「一小判決」という。)は、一審大阪地裁裁判員裁判において、被告人両名に対しそれぞれ検察官求刑の1.5倍の有期懲役刑が言い渡され、控訴審大阪高裁もその一審判決をそのまま是認したという、日本の刑事裁判史上極めて珍しい事件に関わる上告事件に関するものであったことにより、マスコミもこれについて事実として報道するだけではなく、社説としても取り上げるなどし、また、ネットでも種々の意見が述べられた。

 
 ネットで見られた市民の意見には、「刑事司法に市民感覚を反映させるという制度の初期の目的を見失わせる」とか、「量刑検索の相場通りに量刑が決まるのならプロの裁判官のみで下すのと何ら変わらず、裁判員が加わっての評議は無用になる」、「裁判員裁判が破棄されれば制度は形骸化する」などの批判的意見が多かったように思う。

 
 また、新聞の社説には、「市民感覚」を裁判員裁判にどう生かすか、処罰の公平性との調和をどう図るか、現場で具体的な方向性を示してもらいたい(福井新聞8月9日オンライン)、事案と判例のずれが問題なのであれば立法、行政の努力を促す働きを持つ(河北新報8月6日付社説)というものもあった。

 
 私のように裁判員制度の存続を容認しない立場からすれば、今回の一小判決のとった原判決破棄の結論は何ら奇異なこととは思われない。ただし、その判決の理由中に示された「裁判員制度は刑事裁判に国民の視点を入れるために導入された。従って、量刑に関しても裁判員裁判導入前の先例の集積結果に相応の変容を与えることがあり得ることは当然に想定されていたということができる。」との判示については到底容認し得ない。

 

 

 〈制度立案者・運営者が抱いてきたイメージ〉

 
 この判決は、我が国の裁判において裁判員とはいかなる存在であるべきかについて、これまで多くの国民が、マスコミを含めて漠然と抱いてきたイメージに動揺を与え、裁判員制度ってなに?という制度自体への疑問を改めて抱かせるに十分だったということであろう。

 

 ここで、制度立案者、そして制度運営に携わってきた人々のこれまで「裁判員」について抱いてきたイメージを概観してみたい。

 
 司法審の意見書は、司法への国民参加の提言について、「国民の健全な社会常識がより反映されることによって」、また「裁判員が関与し、健全な社会常識が反映させることとすべきである」などと裁判員制度の意義を述べていた。つまり、裁判員とは裁判に国民の健全な社会常識を反映させるものとのイメージを抱いていたようである。

 
 制度運営に関与している最高裁・法務省は、「国民の視点、感覚が反映される」とホームページで述べ、先の平成23年11月16日最高裁大法廷判決も、「国民の視点や感覚と法曹の専門性との交流が相互の理解を深める」と説く。つまり、ここでは、国民の「健全な社会常識の反映」は消え、国民の視点や感覚を反映させるものと変化している。

 
 日弁連は、「市民の司法参加は……司法に健全な社会常識を反映させ、民主主義をより実質化するものであり、これによって司法に対する理解が深まり信頼が高まることが期待されています。」と裁判員法の趣旨を敷衍している(日弁連2009年ブックレット)。つまり、司法審と同じイメージを抱いている。

 
 立法過程においては、衆議院本会議(2004年3月16日)で野沢太三法務大臣はその導入の意義について、「広く国民が裁判の過程に参加し、その感覚が裁判の内容に反映されることによりまして、司法に対する国民の理解や支持が深まり、司法がより強固な国民的基盤を得ることができるようになるという重要な意義があるものと考えております」と述べ、それに付け加えて「迅速な裁判とわかりやすい裁判の実現」という制度の効果の側面もあわせ述べている。

 

 また、「社会秩序や治安、あるいは犯罪の被害や人権といった問題について、それぞれの国民にもかかわりのある問題としてお考えいただく契機になるもの」とも答弁している(衆議院法務委員会会議録9号p5)(参議院法務委員会会議録15号p12~13)。このことは、国民としての感覚を裁判に反映させるものとのイメージについては最高裁・法務省と同じだが、社会秩序や人権について考えさせる対象となるとのイメージもある。



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