司法ウオッチ<開かれた司法と市民のための言論サイト>

 

〈事件外の裁判官の言動と不公平な裁判のおそれ〉

 
 裁判官は事件を離れてどこまで自己の主張、意見、学説を公表し、政治的行為をすることが可能か、具体的事件を離れてなしたそれらの言動が、具体的事件担当時における不公平な裁判をする虞と結びつくかは、本来本問題の解を探る上では検討を避けることはできないかも知れない。

 

 しかし、本件のように、裁判員制度という、これまでの職業裁判官による裁判制度とは明らかに異なる制度という、前述の違憲性について強く問題視され、施行前には政治問題化した制度について、最終的にはその違憲性の審査に関わることになる裁判官が、その制度の宣伝、広報に関わり且つその永続的な運用を正当な方向であると公表しているような場合に、その裁判官はその違憲性の審査に関与することは、小清水弁護人のいわゆる「合憲という結論を出すことは必定」と考えるのは万人に共通することではあるまいか。

 

 裁判員制度のPRをし、その実施のためにひた走ってきた最高裁判所としては、それが裁判員法12条によって裁判官会議の議によって行われたものであれば、その会議で裁判員制度のPRを許可し、竹﨑長官の発言に異を唱えることをしなかった裁判官たちが加わる司法判断において、裁判員制度違憲の結論に辿りつくなどということは100%期待しえないものであった。つまり審理以前に結論が出ている状況であったと言えるのである。

 

 

 〈最高裁の言動は政治的行為である〉

 
 裁判員制度の制定行為が極めて政治的行為であることは明らかである。出来上がった司法制度の法律に則った運営をするのではなく、その制度について裁判官の地位にありながらその存在の効用を説き、発展を期待すること、制度運用について順調或いは概ね順調などという制度の継続の容認を前提とする発言をすることは、司法行政の枠を超えた政治的発言であり、かかる発言を繰り返すものには、違憲の理論に耳を傾け、その理論の説得力に敬意を払うような事態はありえないことであり、本来であれば自ら回避するか、さもなければ公正な裁判を期待し得ないものとしてなされた忌避の申立ては認められるべきであった。

 
 新潟大学大学院西野喜一教授は「裁判員制度合憲判決にみる最高裁判所の思想とその問題点」(法政理論44巻2・3号)において「制度を大々的に推進してきた機関がその合憲性を判定するというのはもはや八百長の世界である」と断じている(p81)のは、一般の国民の評価を代弁したものと言える。

 



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