「強制」が必要な治安意識教育
先にこの制度の狙いが国民の治安意識教育だと申しました。司法審意見書の内容、樋渡司法審事務局長、山崎推進本部事務局長の公表された意見をみれば、それは間違いのないことです。
裁判員になりたいとか、なっても良いという人、これらは国策への協力者ですからもうその意識教育は必要のない人と言って良いでしょう。義務でもやりたくない、本来ならやりたくないが義務なら仕方がないという人ほど、この意識教育は必要だということになりましょう。
そのためには強制以外にはありません。ですから、やりたい人だけ、やってもよいという人だけを対象にするのであれば、制度立案者の立場からすれば裁判員制度を実施する意味はないのです。
裁判員法16条には裁判員の辞退事由が規定されています。政令で定めるやむを得ない事由があるものについては、裁判員を辞退できる場合があります。前述の東京高裁第2刑事部判決は、このように強制とは言っても広く辞退事由が認められているのだから合憲だという趣旨の判示もしているようです。
裁判員制度は反対だ、やりたくない、自分の思想・信条に反するということは、辞退事由にはなっていません。国民の80%以上の人が義務でもやりたくないとか義務なら仕方がないと言っている意識調査の結果があります。
ですから、辞退事由をどのように定めようと、多くの国民には、やりたくないことをやらされる、つまり強制であることには変わりがありません。その強制の程度が弱いから強制ではないということはないでしょう。
しかし、国民一般に網をかけて国民を動員するという仕組みを制度設計の基本とする以上は、どうしても憲法上正当化できない裁判員強制であっても、強制を基本とせざるをえない、つまり裁判員制度と裁判員強制という仕組みは一心同体のものなのです。
裁判員制度の現状とか効用だけが強調されてどんどん事件処理が行われていて、この強制の問題はうやむやにされてしまっているようですが、私はそれは許されないことだと思います。
強制を正当化できなければ、裁判員制度も正当化できないのです。
根拠にならない憲法32条
裁判員制度推進派の人がこのような素人参加の裁判形式も憲法の容認するものだと理屈付ける根拠として、憲法32条に「何人も、裁判所において裁判を受ける権利を奪われない」と規定していて、帝国憲法24条のように「裁判官の裁判を受くる権」と定めていないことを取り上げるものがしばしば見られますが、憲法32条は国民の国家による裁判を受ける権利いわば出訴権を保障したものと解釈されており(西野喜一「東京高裁判決の問題点」法律新聞1853号)、かかる議論は正当とは解し得ません。
それより、裁判への国民参加強制の条項を憲法は全く用意していないことには目を向けない、誤った意見だと思います。
最高裁判所は、先の調査で、出頭率は呼出状の不到達のものを除くと91.3%になっていると言います。しかし、これは呼び出しを受けた人で出頭を拒否しなかった人を分母とする出頭率ですから高くなるのは当たり前です。
昨年9月15日の琉球新聞によりますと、このような計算によっても出頭率は60.9%(25/41)だったとその関心の低さを伝えていました。総呼出数は通常は80ないし100ですから、80人としても出頭率は31%、100人であったとすれば25%ということになります。
これは、このような制度は本来国民の主体的参加がなければ成立しない制度、即ち国民の燃え上がるエネルギーから生まれたものでなければ円滑には行かない制度なのに、司法審というごく限られた人間の集まりで全くの思いつき妥協の産物として発案され、問題意識を持たない国会議員によってあっという間に成立させられたものだからです。
このような思いつきが法律となって国民の自由を奪うこと、それに国民がさしたる抵抗を示さないことに、私はこの国の危うさを感じます。