〈「やりがいあった」「ストレス感じた」〉
最高裁判所の裁判員制度に関する統計資料のなかに、裁判員経験者に対するアンケート結果があり、多くの人が「貴重な経験でやりがいがあった」などと肯定的な意見を述べている。
その一方で、「何も知識がない自分が、人の人生を判断して良いのか、決めて良いのか、とても考えさせられた。ストレスを感じた」とか、「社会見学レベルでは良い経験と感じるが、『裁判』としては良いとは思えない。……真剣に取り組んだ分だけ無駄な時間を過ごした気がする」、「裁判員をする意味が見出せなかった」などの批判的・否定的意見も述べられている。
また、制度自体を評価する意見もあるが、「裁判員制度は非常にコストがかかっていると思うのですが、ここまでかけてもやらなくてはいけない制度なのでしょうか。ニュース等で控訴審で裁判員裁判の一審の判決が覆っている場合が多いということを聞くこともあり、そう感じます。」との厳しい意見もある。
東京地裁では毎月1回裁判員経験者との意見交換会を開いているようである。ネットで、その交換会での出席者の発言内容をみることができる。その発言の傾向も上記の最高裁の調査結果と同様である。
〈裁判員制度の存在意義〉
裁判員制度の存在意義は何か。その制度がこの国にはどうしても必要なのか。上記の裁判員経験者の意見ではないが、真剣にその疑問に向き合うべきではないか。
裁判に市民感覚を取り入れるためなどとマスコミは言うけれども、制度を定める法律は、そんなことはどこにも書いていない。司法というのは、本来、一般国民を集めて市民感覚なるものを取り入れる場ではない。「司法までが民主化しないところに合理的な民主主義の運用があろう」との兼子一教授の指摘は、司法の本質を突いている。
「国民の中から選任された裁判員が裁判官と共に刑事訴訟手続きに関与することが司法に対する国民の理解の増進とその信頼の向上に資する」と裁判員法1条は記すけれども、その根拠は明確ではない。