司法ウオッチ<開かれた司法と市民のための言論サイト>

 

 〈はじめに〉

 

 大阪北部を震源とする内陸地震が2018年6月18日に発生し、高槻市の小学校のブロック塀が倒れて、通学途中の小学4年の女児三宅璃奈さんが亡くなったとの悲しい知らせが全国に流れた。今年7月2日の朝日新聞はその一面で、全国の小中高校を対象とした調査で危険なブロック塀が少なくとも約2500校で確認されたと報じていた。また、同日の同新聞宮城県版には、1978年6月12日に発生した宮城県沖地震の際、倒壊したブロック塀の下敷きになって8歳の二男を亡くした母親のインタビュー記事が載っていた。宮城県沖地震による死者28人のうち、18人がブロック塀などの倒壊で亡くなったと報じられ、その後建築基準法が改正されて、ブロック塀の耐震性の強化が義務付けられた。

 

 ブロック塀の危険性については、法令の改正もあり、全国的にも広く認識されていたのかと思っていたが、この高槻市の痛ましい事故を知って、危険性の認識はさほど広まってはいなかったことを改めて思い知らされた。
宮城県沖地震や東日本大震災では主に東北地方に大被害をもたらした。そこでのブロック塀倒壊による死亡事故の発生が知られていても、大阪の人々は、自分のところだけはそんな大地震が起きることはない、仮に大阪にそのような地震が発生しても自分のところだけは大丈夫と何となく思ってしまっていたのだろうか。

 

 この世の中は危険に満ちている。歩道を歩いていても突然に車が飛び込んできたり、突然に裏山が崩れてきて建物が倒壊したりと、人災・天災は尽きることがない。現に、7月上旬には西日本の各地で記録的な豪雨災害が発生し、多くの方が亡くなった。社会的関係では、いつ自分があらぬ疑いをかけられて密告されたり、司法取引を悪用されて共犯者に仕立て上げられたりするか分からない。

 

 しかし、多くの人々は日々幸せそうに暮らしている。この国がシリアになったり、アフガニスタンになったりすることは、まずありえないと思っている。

 

 

 〈危険発生の予知について〉

 

 確かに、平和な日常から一気に戦争に発展することはないであろう。しかし、今、身近に起きている些細な変化が、戦争に向かう道の一歩になっているのかも知れない。

 

 以前にも引用したことのある「彼らは自由だと思っていた――元ナチ党員十人の思想と行動」(ミルトン・マイヤー著、未来社)の中のニーメラー牧師の告白(拙著「裁判員制度廃止論」27頁参照)に接すると、ニーメラー牧師ほどの人でもぎりぎりまで自分に危険が及ぶことは察知できなかったのであろうかと思わされる。

 

 東日本大震災において、大地震がきて津波の襲来の危険は感じても、自分らのところまではこないだろうと思って避難が遅れ、多くの人命が失われたのではないかなどの指摘もある。

 

 確かに、いつ起きるかも知れない危険を考えて日々怯えて暮らしたのでは、何のための人生かということにはなろう。予想される危険を考慮の上、その危険の現実化を避ける方策を建てる、必要のないものならば初めから作らないという賢明さを持てば、確かに被害を未然に防止できる。しかし、全ての生活場面でそのような配慮をすることは困難であろう。

 

 以前、ある本を読んでいて、心理学の用語で「正常性バイアス」という言葉があることを知った。自分にとって都合の悪い情報を無視したり過小評価したりしてしまう人間の特性を言うらしい。

 

 高槻市の倒壊した塀については、倒壊前からその危険性を指摘していた人がいたという。それでも何らの安全性強化策も講じられなかったのは何故であろうか。財政的理由をあげる人もいるけれども、それは理由にはなるまい。その危険性が人命にかかわるものであれば、教育予算総額からすればさしたる額とも思われない経費を捻出できないなどとは考えられない。

 

 私には、その地の教育行政を司る者らの正常性バイアスが働いていたのではないかと推測する。自分らのところには地震は来ない、来ても小規模なものだけだと、関係者は思い込んでいたのではないであろうか。



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