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 〈憲法に込めた思いと自民「改正草案」〉
 

 「憲法は、国の最高法規ですから、この憲法できめられてあることにあわないものは、法律でも、命令でも、なんでも、いっさい規則としての力がありません。これも憲法がはっきりきめています。このように大事な憲法は、天皇陛下もこれをお守りになりますし、国務大臣も、国会の議員も、裁判官も、みなこれを守ってゆく義務があるのです。……みなさん、あたらしい憲法は、日本国民がつくった、日本国民の憲法です。これからさき、この憲法を守って、日本の国がさかえるようにしてゆこうではありませんか」

 この誰が読んでもよくわかる呼びかけは、「あたらしい憲法のはなし」と題された、1947年8月2日に文部省が発行した中学1年生用教材の末尾「最高法規」の一部である。あれから73年余が経って、この言葉を胸に刻み付けている国務大臣、国会議員、裁判官はいかほどいるであろうか。

 2012年4月、自由民主党は「日本国憲法改正草案」なるものを公表した。その案では、前文中の、憲法原理に反する一切の憲法、法令及び詔勅を排除する、との文言を削り、且つ、現行第97条「この憲法が日本国民に保障する基本的人権は人類の多年にわたる自由獲得の努力の成果であって、これらの権利は、過去幾多の試練に堪へ、現在及び将来の国民に対し、侵すことのできない永久の権利として信託されたものである。」との文言をそっくり削ぎ落している。

 憲法第96条は憲法改正手続きを定めるが、その定める手続によりさえすればいかなる内容の憲法改正も許されるとする無限界説は少数説であり、通説は法的な限界があるとする(芦部信喜「憲法第5版」p386、清宮四郎「憲法」有斐閣p324など)。民主主義、基本的人権の尊重、平和主義に反する改正は、憲法の基本原理を破壊するものであって、革命行為とされる(清宮「憲法要論」p46)。


 〈憲法の解釈権は誰にあるか〉 

 憲法は言葉によって構成されるものだから、そこには常に解釈という行為が伴う。その解釈については、その言葉の本来有する意味を或る意図をもって捻じ曲げ、屁理屈をまかり通らせることがある。

 法解釈の決定権を持つものは最終的には最高裁判所だが、最高裁判所において最終的に法解釈が示されるのは係争事件の解決のためだから、多くの法律、特に行政関係法規は、内閣の解釈が解釈として通用することになる。

 憲法9条の解釈として、我が国は、個別的自衛権(自国を防衛する権利)はあっても集団的自衛権はないという解釈が代々の内閣の統一見解とされてきた。集団的自衛権とは、国連憲章51条に見られる用語であり、ある国家が武力攻撃を受けた場合に、直接には攻撃を受けていない第三国が協力して、共同で防衛を行う国際法上の権利とされる。自分の国が攻撃されなくても、例えば同盟関係にある国が他国から攻撃されたら、その他国を攻撃することができるということである。

 従来の自衛の解釈は、自国が攻撃された場合にのみ、その攻撃相手に対し反撃することであったのに、集団的自衛権ということになると自国が攻撃されなくても他国を攻撃できるということであり、戦争の危険は圧倒的に高くなる。



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