〈論説②について~「前提問題」論の無理〉
柳瀬氏はさらに、争点は、弁護人の提起したものだけではなく、その「争点」と論理的に関連づけられた前提問題を含むと言いたいようである。
刑事訴訟法407条は、上告趣意書によって上告申立の理由を明示することを義務付けている。最高裁大法廷が裁判義務を負うのは、裁判所法10条1号によって「当事者の主張に基いて」憲法適合性について判断する場合と、同条2号によって法令の違憲判断をする場合を掲げる。憲法学者は訴訟手続きに学力の問題によって疎いのかどうか(前記安念氏論考)は全く分からないが、柳瀬氏は、上告趣意の明示がなぜ必要か、その内容がいかなるものであるかは訴訟上極めて重大な影響を持つものであることを理解していない。
柳瀬氏が述べる「争点」に「関連づけられた前提問題としてその検討は不可欠だった、最高裁が裁判員法の憲法34条、32条、37条1項、76条3項の憲法適合性について判示したことは、当事者の主張との呼応関係には問題はないと解する。」趣旨の論旨(憲法18条についての判断の必要性については積極ではないと注釈している。)は、漠としていて正直何を言わんとしているのか不明である。
それらの条項が上告趣意として明示されている判断に関連付けられているというのであれ、その限定された2つの上告理由の判断の中において触れられて然るべきなのに、どこにも触れられてはいない。
柳瀬氏は、前述のとおり、大法廷事件の弁護人の上告趣意が憲法80条と76条2項の2点「だけ」であったことは認めている。しかし、大法廷判決が上告趣意として記述していることは「所論は多岐にわたり裁判員法が憲法に違反する旨主張する」というものであり、憲法76条3項違反、憲法18条違反の主張もあったと偽りの記述をしていることは明白であるのに、それについての評釈をしない。
最高裁は、判決において偽りの記述をしても許されるということであろうか。上告趣意として主張されないことであっても最高裁は合憲判断が可能だというのであれば、それは一つの独自の見解と解することもできるかも知れないが、上告趣意とはしないとわざわざ弁護人が断っているものを、上告趣意であったと偽りの記載をし、それに対し判断を示している最高裁の欺瞞的態度を柳瀬氏は容認するのであろうか。
前掲拙著でも指摘したが、最高裁は以前「控訴審において主張判断のなかった実体刑罰法規に関する違憲の主張についても上告理由として不適切である」旨判決している(昭和39年11月18日大法廷刑集18巻9号p597)。
論説は、前述したとおり、この大法廷判決の原審東京高裁判決は、憲法18条、76条3項の問題については控訴審で主張されなかったため判断を示していない。その昭和39年の判例の立場からすれば、弁護人が最高裁に至って初めてその点の違憲の主張をしたものであれば、最高裁は不適法な上告趣意としてこれを却下すべきであり、まして、上告審ではその点の上告趣意はなかったとなれば、判断を示すべきでなかったことは明らかであろう。
また論説は、「争点」は弁護人自身要約の2か条に限定されるべきではない、弁護人は種々の違憲の主張をしているのだからという。拙著でも述べたが(p113)、上告審弁護人は「『裁判員制度』は『違憲のデパート』と言われるほど多種多数の憲法問題を包含している。しかしながら本件での上告理由としては、最も単純で明快な問題として……『正規裁判官』の任命制度と……『裁判員』の選任制度との齟齬矛盾の問題だけをとりあげるにとどめる」としている。つまり、論説が掲げるようなことは、言葉として記してはいても、それに対する判断は不必要ですよと態々断わり書をしているのである。弁護人がその2か条に限定すると言っているのに、限定されていると解すべきではないなどと述べるのは、いかなる思考回路を用いているのか全く理解できない。
〈その他の意見について~調査官解説で論理不足補てん〉
論説では、拙著を取り上げているが、上記の上告趣意捏造の点を除いては触れていない。憲法80条1項に規定する「裁判官」の解釈について柳瀬氏がいかなる解釈をしているのか、宮澤教授の解釈は誤りだというのかには全く触れない。
また、憲法76条3項の問題については、本来上告趣意として取り上げられてはいないから改めて論ずるまでもないものではあったけれども、論説で「本判決は、裁判員法が憲法に適合するという判断を前提に、裁判官が自分の意見と異なる結論に従うのは、憲法適合的な法律に拘束される結果であるから裁判官の職権行使の独立違反ではないという」ことについて「職権行使の独立に違反しないとする実質的な理由は判決文の記述のみから読み取ることは困難である」と評し(その評自体はそのとおりである。)、調査官の解説でその理由不備部分を補おうとしている。
その判示部分は実は、大法廷判決の巧妙なごまかし部分であるのに(「司法ウォッチ」拙稿2016年12月29日~「裁判官の独立と裁判員制度」参照)、論説はそのことについての詳細な検討を怠り、調査官の解説でその論理の不足分を補うという論法を用いている。かかることは判決の論評のあり方としては異常なことであろう。判例解説は最高裁判決と同価値に扱うことが許されるとでも考えているのであろうか。
要するに論説は、何としても最高裁大法廷判決を擁護したいがために、思い付く限りの論理や手法をつなぎ合わせているとしか解し得ない。論説は、国民参加と裁判員制度の憲法適合性について、合憲の立場から、これまでの合憲論の復習をしているに過ぎない。拙著で取り上げた憲法80条1項違反の上告趣意に対する判断遺脱の点(p118以下)には全く触れていない。
なお、柳瀬氏らが展開する討議民主主義理論を裁判員制度に持ち込もうとする意見については、既に私は論じており、そこでは最高裁も暗黙のうちにその立場からの合憲論の理由がないことを示しているものであることを付記する(拙著「裁判員制度廃止論」p105)。