〈今も続く被害、失われた人生〉
2011年3月11日午後2時46分、私は仙台駅近くのマンション8階の事務所にいた。突然の大きな揺れ、机の脇のロッカーが動き出し私の方に倒れそうになり、ふらつきながらも必死でそのロッカーを支えていた。転倒防止のビス止めなどをしていた書棚はもろくも次々と倒れ、本は散乱し、その後、水・電気・ガスの供給はストップして、仙台の都市機能は完全に麻痺した。
これより先、1978年6月12日夕にも震度5の地震(宮城県沖地震)に見舞われ、そのときも事務所の壁はひび割れ、水も電気も止まるという被害を受けてはいたが、3・11地震ははるかに強大で、これはただ事ではないと思い、すぐに事務員に帰宅を促し、今後の対応を考えた。夕方何とか車で帰宅できたが、テレビはつかず、ラジオでは地震の被害の状況はよく分からなかった。
ただ、そのような中、寒い夜であったが外に出てみて天を仰いだ時の星空の輝きは、本当の夜空はいつもこんなに美しいものだったのかと感嘆すると同時にとても不思議な気がした。
しかし、その同じころ、私の長兄一家が住む福島県双葉郡大熊町の家から3㎞ほど離れたところにある東京電力福島第一原子力発電所は、炉心溶融、建屋爆発、放射性物質の大量放出の危険にさらされていた。兄ら一家は他の住民とともにまさにとるものもとりあえず遠方へと避難を余儀なくされた。長兄は、再び大熊町に戻ることは不可能と判断して建てたいわき市の家で、昨年5月亡くなった。
原発事故による死傷者の数は原爆によるものよりは少ないかもしれないが、その被害の範囲は原爆による被害を上回る。ある酪農家の主人は前途を悲観して自ら命を絶ったと伝えられた。国の支援を受けた東京電力による賠償金によっても、今なお続く被害、失われた人生、ふるさとは帰らない。
この原発を設置し被害の発生を防がなかった東京電力とその経営者らに対するそれら被害者の憤りが強いのは当然のことである。
この原発事故は何故起きたのか。なぜ被害を最小限度に止められなかったのか。事故後、国会、政府、東電は、それぞれ事故調査委員会を設置して調査し、それぞれ報告書をまとめている。また、それらとは別に、第三者の立場で福島原発事故独立検証委員会が調査をしている。
〈運転停止義務の認定「困難」〉
東京地裁は、2019年9月19日、東京電力元会長ら3人の業務上過失致死傷事件について、被告人全員に対しいずれも無罪の判決を言い渡した。
判決の全文に接したわけではなく、新聞に掲載された判決要旨には公訴事実の内容の記載がないので、その要旨から訴因を推測する以外にはないけれども、大凡つぎのようなものではなかったかと思われる。
「2011年3月11日三陸沖を震源とするマグニチュード9.0という、規模、震源域ともに国内観測史上最大の地震が発生し、高さ約13mの津波が東京電力福島第一原発を襲い、1~3号機は炉心冷却機能を喪失し、1号機、3号機、4号機は原子炉建屋が相次いで爆発し、2号機も水素や放射性物質を放出し、その結果、当時双葉病院や老健施設に入院入所していた計44人が避難先等で死亡し、他に負傷者も出るに至った。同原発を設置し稼働させている東京電力の最高意思決定機関の地位にあった被告人らは、2008年6月から遅くとも2009年2月までの間に2002年7月に出された政府の長期評価等により福島第一原発に10mを超える津波の到来を予見し得たのだから、原発設置会社の最高責任者として本件事故時までには原発の安全対策を講じ、それが終了するまで原発を停止すべき業務上の注意義務があったのにこれを怠り、それによって上記44名らを死傷するに至らせた。その行為は刑法211条に該当する」というものではなかったかと思われる。
その無罪判決の理由は、要するに、被告人ら3人は、10m盤を超える津波が襲来する可能性に触れる長期評価について信頼性、具体性のある根拠を伴っているものとは認識せず、その認識がなかったとしても不合理とは言えない事実がある、運転停止すべき法律上の義務があったと認めることは困難というべきであり、発電所の運転停止を講じる結果回避義務を課すにふさわしい予見可能性があったと認めることはできない、仮に予見し得たとしても結果を回避することは可能だったとは認められないというものであると解される。
この判決に対しては、検察官役弁護士から東京高裁に控訴の申立てがなされ、この被告事件はさらに継続することになった。