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 〈裁判官による裁判と裁判員参加裁判の違い〉

 これまでの一審裁判は、合議、単独ともに経験豊かな裁判官が担当して来た。そうであっても、控訴審の事実審査は、心証比較説がむしろ当事者の意向にも合致するものと解されて来た(前掲白木補足意見)。

 前述のとおり、裁判員裁判における裁判員は、言うまでもなく裁判には全くの素人である。直接主義・口頭主義により証人や被告人の供述を直接自分の耳で聴くことができたところで、それをどのように理解するかは全く不安定であることは間違いがない。

 直接主義・口頭主義が実を上げるためには、前述のとおり、証人の証言や被告人の供述を証拠法則、経験則、論理則に従って冷静に、且つ全人格を傾注して理解する作業が必要である。

 素人が、証人の証言等を直接聞くとは言っても、その証人の証言等がどのようなバックグラウンドのもとになされたものか、言外に含むものはないか、証人等は完全に自分の認識した事実を正しく表現しているかなどを適切に把握することが一体可能なのであろうか。そのような素人が評議において適切に自己の意見を述べ、判断に反映させることができるだろうか。

 そのことが科学的に正当なものとして検証可能でなければ、つまり聴く耳を持ち正しく表現できる者による裁判であることが検証されなければ、直接主義・口頭主義を全うしたとは言えないのではないか。評議についての厳格な秘密主義のもとではその実現は絶望的といってよい。
 

 〈実態に目を瞑る裁判員裁判理想化〉

 裁判官3人が裁判員を指導し教示するから大丈夫だとは言っても、裁判の本質的部分であり、本来プロにとっても困難な作業である事実認定について、その指導、教示によって直ちに適切に対応し得ることになるなどということも経験則、論理則に照らせば有り得ないことである。

 そうであれば、これまでの一審裁判と変わるところはない。仮に一審判決に裁判員の意見が多少でも反映されることがあるとすれば、経験豊富な裁判官によらない事実認定であることによりその危険は高まり、控訴審はその認定について不服を申し立てられたならば、全記録とその紙背にあるものを探り出しても独自の心証を形成する必要性が高まる。

 つまり、控訴審は、一審が裁判員裁判であればなおのこと、その一審判決については自らの心証を形成し差戻し或いは自判することが求められるということにならなければおかしい(西野喜一「裁判員制度批判」p21は、刑事訴訟法の目的とする実体的真実主義の立場から「裁判員制度下の控訴審には、問題点を多く孕むことになりそうな一審判決の過誤を修正するという重要な機能が期待されていることが挙げられる。その機能を果たすには自判が最も適切である。」とし、また、前記大久保元裁判官は前掲週刊法律新聞の論稿で「国民の多数は、裁判員の参加した裁判であっても、それが適正妥当であるかどうかを控訴審裁判官がその良心に照らし判断することを願っていよう」と述べる。)。

 一小判決の前記判示中に「直接主義・口頭主義の原則が採られ、・・・それらを総合して事実認定が行われることが予定(・・)されて(・・・)いる(・・)」と記しているところからすれば、一審の実態がいかなるものであれ、一審では直接主義・口頭主義が理想的に実践されているものと信じて、控訴審の事実審査は行われるべきものだということと解される。裁判員制度が導入されれば、さらにその実践は確実になるという信仰がそれに加わる。

 しかし、直接主義・口頭主義の実態、特に裁判員裁判におけるものは前述のように控訴審が端から直接主義・口頭主義による審理が行われたものと解し得るものではないこと、むしろ裁判官のみによる審理よりも、その実質からはかけ離れたものとなる危険性が高いことは明らかなのである。

 一小判決は、一審の審理や裁判員裁判を余りにも理想化し、実態に目を瞑り、実体的真実発見の刑事訴訟の目的を軽視しようとしているものと解される。



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