〈死刑事件担当は当然という新聞論調〉
裁判員裁判で死刑を宣告された被告人が、弁護人のした控訴を取り下げて判決を確定させ、昨年12月18日同人は死刑を執行された。朝日新聞は12月28日、「裁判員裁判・死刑と向き合う機会に」という見出しの社説で、「裁判員が死刑求刑事件について判決を下すという仕組みから、私たち国民は逃れるべきではない。そもそも国家権力が人を裁き罰することができるのは主権者である国民の負託を受けているからだ。刑罰のあり方を決めているのは国民であり、その究極の現れが死刑だ」「人を裁くという経験を通じ、死刑と向き合い、是非を考える。裁判員制度をそうした機会にしていくことが大切だろう」などと論じている。
その論調は、司法の本質に対する考察を怠り、論理が飛躍し過ぎて理解が困難だが、推察するところ、まず裁判員制度の積極的推進を謳い、死刑制度については自社の意見の表明を回避し、当面の死刑判決とその執行を是認しつつ、国民は裁判員の経験を通じ死刑についてじっくりと考えるべきだ、何となれば、死刑を定めたのは主権者である国民であり、裁判員はその主権者として死刑と真っ向から向き合うべきだから、ということではないかと解される。
この論説は、同新聞社自体が以前から裁判員制度推進を表明してきたからであろうが、裁判員制度の対象に死刑事件を含めることが相当か、仮に相当として、その評決において他の事件とは異なる仕組みが必要かという、これまで裁判員制度と死刑との関わりについて論じられてきた点には踏み込まず、いきなり、裁判員が死刑事件を担当すべきは当然であり、国民は裁判員制度を、死刑を含む刑罰についての絶好の学びの場とすべきであるといっているということである。
〈制度の根本の議論が深められない〉
新聞の論調が上述のようなものであったからであろうか、今年1月9日の同紙の「声」欄には、裁判員制度自体の問題ではなく、死刑制度に重点を置いた意見が掲載された。
前記社説の意見は私の到底受け入れられないものであり、それについては機会があれば別に論じたいが、本稿で言いたいことは、マスメディアの論説がやはり世論の方向性を決めることに大きく影響していることを今更ながら痛感するということである。
マスメディアが制度の根本に触れずに現象面のみの報道を続ければ、いつまでたっても制度の根本的問題は深められない。マスメディアが日々取り上げるテーマは数限りなくあり、いつまでもこの裁判員裁判に限局された報道をしているわけにはいかないことはわかるけれども、一旦その根本にメスを入れる発言をすれば、国民間に自ら制度の根本についての議論が生まれ深まっていく。制度存廃についてのマスメディアの果たす役割は実に大きい。
国民に不人気の裁判員制度について、曲りなりにも制度として運営されていることの一因として、このマスメディアの、制度の抱える問題に触れようとしない現状があることは間違いがない。