〈最高裁の判断過程に含まれなかった重要な事項〉
㋑ 裁判官の定義
上記の事項(編集部注:第1回参照)には、憲法76条3項、80条1項の「裁判官」の定義に関する考察が欠けている。この点については拙著「裁判員制度はなぜ続く」(以下「なぜ続く」として引用)p125以下に詳述した。
㋺ 国民の意味
「国民」とは何かについての考察もない。憲法が定める国民(第3章の諸規定、第4章43条、第6章79条、第9章96条、第10章97条)には、①国家の構成員としての国民、②主権の保持者としての国民、③憲法上の機関としての国民の三種があると言われる(清宮四郎・有斐閣・法律学全集「憲法1」初版p85)。
大法廷は漠然と「国民」の司法参加と表現しているけれども、この国民とは、上述の3種のうちのいずれのものを念頭に置いたのであろうか。「裁判の国民的基盤を強化しその正統性を確保する」との判示からすれば、司法に主権者として関わる者としての国民を念頭に置いているのかも知れない。しかし、主権者としての国民とは、国政についての最高の決定権をもち、国の最高法規たる憲法を制定する権能を有する者の意であり(前掲清宮p93)、一人一人の国民を指すものではない。
憲法上の国民とは、国政の権威の根源であり、国政を代表者に信託し、福利を享受する存在だということであり(憲法前文)、個々の国民は、国家の意思決定については自ら国家の機関となる場合を除いて(前掲清宮p95)代表者を通じて行い、それによる福利を享受する主体だということである。裁判の場に偶々くじで選ばれて立ち会う者は主権者たる国民ではない。つまり、裁判という国家意思の形成、国民の生命・自由・財産等の権利・利益を収奪し得る権限の与えられている者ではない。
我妻栄教授はその遺著「法学概論」(有斐閣・法律学全集)において、「国民」について、人々の「集団」という言葉を用いている(p8)。また、その権力について、集団が「その統合によって構成される権力」とも称している。国民という言葉は、種々の場面でしばしば用いられるけれども、少なくとも裁判所が用いるときには曖昧な使用は許されない。衆議院議員選挙権を有する者の中から偶々くじで無作為抽出された人間は、憲法における主権を有する国民ではない。単なる一般市民である。
裁判員制度について司法への国民参加と称することは極めて不適切であり、強いて言えば素人市民参加というべきである(拙著「裁判員制度廃止論」(以下「廃止論」として引用)p14)。
㋩ 国民・被告人の人権の保障
何よりも、参加する国民の参加強制性を含む基本的人権や被告人の裁判を受ける権利などその人権についての詳察がない。さらに、憲法76条3項については、裁判官を刑事裁判の基本的な担い手と考えていることにのみ結びつけ、前述の「くじで選ばれた一般市民の直感的判断によって内閣が任命した裁判官の判断が左右されることがあっても良いのか」という憲法解釈上の根本的問いには全く触れていない。
なお、前記①の判示する、裁判官を刑事裁判の基本的な担い手と表現する意図が判然としない。文脈からすれば、裁判官が裁判の刑事裁判の基本的担い手となることにより刑事裁判権の行使が適切に行われるから心配無用だということになりそうである。そうとすれば、国民参加がなくても刑事裁判は適切に行われる、刑事裁判の適正さという点では特に国民参加は不必要であるということになり、却って国民参加不必要論の論拠を述べていることになりはしないか。
㋥ 公務員選定権について
私が以前取り上げた憲法15条の国民の公務員選定権の問題(司法ウォッチ2016年9月~11月)も取り上げていない。