裁判員制度反対派の論客である弁護士である筆者が、裁判員を強制する制度の問題を中心に鋭く斬り込みます。
1933年11月18日生まれ。1970年弁護士登録(仙台弁護士会)。1988年仙台弁護士会会長、1989年日弁連副会長、1999年東北弁護士会連合会会長などを歴任。
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〈守秘義務というベール〉
さらに、この評決に至る過程はブラックボックスの中のことであり、それに関与した者は厳しい守秘義務により評決の内容を明らかにすることは許されない仕組みになっている。
以前、拙稿(「裁判員裁判控訴審の事実審査について」「司法ウォッチ」2012年10月から2013年1月まで)でも触れたが、2012年7月30日大阪地裁の裁判員裁判でアスペルガー症候群と診断された被告人が懲役16年の求刑に対し懲役20年の判決を言い渡され、社会的に大きな反響を呼んだ。
この判決において、裁判員はどういう意見を述べ、裁判官はどういう意見を述べたかということは明らかではない。裁判員裁判の実態を知るためにはどうしても明らかにしてほしいことではあるが、前述の守秘義務によりそれが明らかにされることはない。
その判決の理由がふるっている。アスペルガー症候群の犯罪者が内省のないまま社会復帰をさせれば再犯が心配である、出所後の再犯を防ぐ社会的受け皿が整っていないから、検察官求刑以上の刑務所における長期の拘束が必要だということである(新聞報道)。間違いなく評議の中で出た量刑理由であろう。そして裁判官のうち少なくとも1名はこれに賛同したということである。裁判官が、裁判員、現実には裁判所の大切なお客様に気を遣い、その意見を尊重するという場面があったのではないかとも推察される。
大法廷判決も二小判決も、裁判員裁判には裁判官が関与するから公平且つ適正な裁判が行われる制度上の保障が十分に保たれていると言うけれども、かかる制度の秘密性からしても、裁判員裁判が公平性、適正性が制度として客観的に担保されているものであることを科学的に実証する手段はない。大法廷判決も二小判決も、ただ裁判員裁判の公平、適正神話を信じているだけである。
〈責任を問われない裁判員〉
裁判官裁判が常に公平、適正に行われているかといえば必ずしもそうとは思われないが、裁判官に任ぜられた者には、その身分の保障があり(憲法80条)、良心に従い独立してその職権を行使し、憲法と法律にのみ拘束されることが義務付けられる(憲法76条3項)。何より、顕名で裁判をしなければならないことにより、自己の判断について被告人及び国民に対し責任の所在を明確にすることが求められる(刑事訴訟規則55条)。
一方、裁判員は、裁判員法第101条により名も素性も一切が秘密である。要するに、その裁判について責任を問われることはないということである。
被告人の1回限りの貴重な人生について、国家権力の側に立って決定的判断をなす者が、その判断について責任を全く問われないということは、被告人からすれば無責任な裁かれ方をされるということである。それでもなお、最高裁は、裁判員制度は裁判官が加わっているから公平、適正な刑事裁判を担保する制度であると強弁するのであろうか。
憲法32条、37条によって被告人に対し保障されている裁判所は、間違いなく憲法第6章に規定されている裁判官によって構成されているところの、被告人に対しそして国民に対し裁く立場の者の責任を明確にし得る裁判所を言うのである。それ故にこれまでもその裁判形式によって裁判が行われ、現に殆どの裁判がその裁判形式で行われている。
裁判員裁判が制度として公平性、適正性が保障されているからとの理由は全く根拠のないものであり、それだけでも、この二小判決は否定されるべきである。