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 〈認められることになった公訴の二重基準〉

 この事件は、検察審査会法第7章の規定による、いわゆる強制起訴事件である。検察審査会という組織は、検察官の起訴独占の例外としてその不起訴処分に対し、いわゆる民意によるチェック機能を果たさせようとして考案された我が国独特の組織である(拙著「裁判員制度はなぜ続く」p183以下「検察審査会制度を問い直す」参照)。

 実質的には行政組織でありながら監督官庁なるものは全くなく、その職務は裁判所の組織の一部ではないかと誤解され得る何とも曖昧な組織である。2004年の改正前は、その検察審査会の議決は検察官の処分を変更させる効力のない微温的なものであったことによってその組織の曖昧性はそれほど表面に出ることはなかったが、前記の改正により、第二の起訴権者としての力を得、指定弁護士による公訴提起とその維持によってその議決に重大な効果を発揮させることができることになった(播磨益夫弁護士は、起訴強制は違憲であると説く[前掲拙著p191])。

 これにより、いわゆる公訴についての二重基準が認められることになった。検察審査会は全国に165あり、それぞれ全く独立し、厳しい秘密性を持ってそれぞれの審査業務を担当していることからすれば、極めて地域性の高いものであり、それ故にそれまでの全国的に統一された起訴基準は崩れることになった。私は、前記拙稿でその弊害を説き、新たな検察監視、不服審査機関創設の提言をした。

 国の組織に市民たる素人が入れば、それは民意を反映し得る民主的な組織だと捉えられがちであるけれども、起訴される国民の立場に立てば、通常の公訴官によれば公訴されずに済むもの、本件ではたまたま東京地域の検察審査会による議決であったために起訴されたということであり、極めて不平等なことである。

 前記の朝日新聞の社説の表現のような、被害がとてつもなく大きい、それでいて刑事責任を問える者がどこにもいない、それはおかしいとか、それに類するいわゆる民意によって、通常の公訴官によっては公訴されることはなかった国民が被告人の立場に立たされるということは、行政の平等性からしても許されないことではなかろうか。


 〈柳田邦男氏の意見〉

 政府事故調の委員長代理を務めた柳田邦男氏は、朝日新聞(2019.9.20付)への寄稿文の中で、この判決について「法律論からはかかる判断を仮に是としても、深刻な被害の実態の視点から考察するなら、たとえ刑事裁判であっても、刑事罰の対象にならないと結論を出すだけでよいのかと思う」「問われるべきは、これだけの深刻な被害を生じさせながら責任の所在をあいまいにされてしまう原発事業の不可解な巨大さではないか」「裁判官は歴史的な巨大な複合災害である事故現場や『死の町』や避難者たちの生活の現場に立ち、そこで考えようとしなかったのか」と問う。そして結びとして、「判決文では、有罪・無罪に関わらず、この国の未来の安全と国民の納得・安心につながる格調の高い論述を展開してほしかった」と述べる。

 その趣旨は、判決においては被告人らの無罪の理由だけではなく、被害者の心情に寄り添った原発事業の不可解な巨大さに踏み込んだ思いやりのある判決理由を示してほしかったということであろうか。

 被害を受けた市民の立場からすれば当然の要求ではあろうが、同氏も述べるように「刑事責任追及の場と安全確立のための事故調査とでは追及の枠組みと結論の絞り方が本来異質」であって、刑事裁判についてはあくまでも被告人という人間の起訴された事実についてその刑事責任の有無のみが焦点であり、それ以上の見解の表明は越権にもなり得、かえって誤解を招きかねないこともあり相当ではない(なお、その柳田氏の論考の表題に「あるべき安全思想 欠く判決」とあるのは、柳田氏はそのような評価はしていないので、標題としては不適切であろう)。



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