〈行為者抹殺の科刑と社会の責任〉
死刑制度に関連して述べれば、死刑相当事件としての犯罪を実行した者の行為は、その素質、成育環境、教育訓練等の過去と完全に断絶した自由意思によって選択したと言えるであろうか。行為者の内心としては、自己の行為を社会のせいにする、親のせいにすることは、道義的には許されるべきではないと考えるけれども、社会的には全ての犯罪は人間の行為としてその過去と断絶して敢行されているとまではどうしても言えないのではないか。
そこには社会自体、社会の総括としての国家も僅かながらでも負担しなければならない責任があるのではないか。また、死刑は、その犯罪者の、この社会からの、この社会による完全な抹殺、つまり有を無にすることである。その社会もまた、僅かでもその犯罪に関与しているときに、行為者を抹殺することは、社会が負うべき責任の一端を負わず、責任の全てを行為者に負わせてしまうことではないのか。死刑は犯罪者に対し社会人への更生の機会を絶無にする点で、他の刑罰とは本質的差異がある。やはり、いかなる極悪非道の犯罪者であっても、社会はその犯罪の加担者として自らの手でその行為者の生命を奪うことは、前記の死刑廃止論の根拠、刑罰の目的の本質をも合わせ考慮すれば、許されないのではないか。
私がパネラーとして述べたことは、このような私の考えを手短に纏めたものであった。
先に引用した小酒井敏晶氏は、「決定論と非決定論のどちらの立場であれ、責任を因果関係で捉える点は変わらない。責任は、それとは異なる論理に従う社会現象だ」(「人が人を裁くということ」岩波新書p155)、「犯罪の行為者が責任者として選定され、罰を受ける場合は確かに多い。しかし、それは責任や罰が、犯罪行為の因果関係に依拠するからではない。犯罪事実が意味づけられる過程において行為者が最も目立つため、犯罪のシンボルとして選ばれやすいからである」(同著p166)と述べる。
傾聴すべき意見とは考えるが、私は未だ、犯罪の責任について行為者である人間との因果関係に依拠しないと断ずるまでの頭の切替えができない。そのような責任の本質論とは別の従来の自由意思論を含めた因果関係論をとりながらも、死刑という、行為者を抹殺する刑を科すことは、社会は社会自体の責任を全く考慮しないことになるのではないかと考えるものである。
また、先に取り上げたEU代表部公式マガジンが記す刑罰の目的である「最終的に(犯罪者を)社会に復帰させること」というのは、社会の秩序維持という目的から出ている面が大きいであろうが、私は、犯罪者の更生による社会復帰という刑罰の目的は、犯罪を生み出した社会の総括としての国家による行為者本人に対する責任の履行の面もあるのではないかと考える。
〈賢明とはいえない対象化是非の論議〉
死刑という刑罰は、国家が、重大な反社会的行為をしたものをその国家社会から抹殺する行為である。国家は、それによって秩序を保ち存続していく。それは正に国家間の戦争行為に類似する。自国に刃向う国家に対しては、自国の存続のために他国を抹殺しようとする。他国は、死刑囚とは異なるから、決して対立国に対し従順に従うことはない。そのために戦争という壮絶な死刑合戦を展開することになる。
国家・社会に敵対するものは抹殺するという点では、死刑と戦争とは、そのレベルや行われる状況は異なるが、本質的に同性質のものである。
国際連合という本来は国家連合(英語名はそのものずばりUnited Nations )であるのに、国連は、各国の国内制度である刑罰問題について、決議、勧告をするのは何故か。戦争という殺人行為の反人権性と死刑の反人権性とに共通点を見いだし、この地上に偶々生を受けた人間というものの尊厳を維持することの使命感から、前述の規約の決議、勧告という行為に出ているのではないであろうか。
憎悪、報復感情は人間の本性に根差しており、理念的に死刑はいけない戦争はいけないとは分かっていても、人類はそう容易にこれらを捨て去ることはできない。人類の歴史がそれを示してきた。
平和を望まないものはなく、「平和」ほど人々が口にする言葉はあるまい。しかし、それはそれだけ平和を実現することは困難だということである。
しかし今、人類史は前述のように死刑という困難な問題についてその廃止の方向に船出した。EU加盟国は死刑廃止を加盟の条件とするまでになった。国際連盟で失敗した人類は、国際連合で何とか平和を構築しようと努力している。
裁判員裁判から死刑対象事件を外すとか外さないという議論をすることは、決して賢明なこととは思わない。死刑も裁判員制度も廃止すべきであると考えるからである。その社説氏にも、もう少し裁判制度としての裁判員制度、刑罰制度としての死刑について突っ込んだ論究を期待し、その内容を発表して頂きたい。