〈裁判員制度の存在意義?〉
前述の朝日新聞のコラムに掲載された裁判員経験者の「犯罪を他人事と思わない人が増えれば、犯罪の抑止力になる」との検察官の説明に裁判員制度の終着点を見つけた気がしたとの記述は、法案審議時の野沢法務大臣の「裁判員を経験した方々に社会秩序や治安あるいは犯罪の被害や人格といった問題について自分たちにもかかわりのある問題としてお考えいただく契機になるものと考えている」との発言の受売り的検察官の説明に満足のいく回答を得たと思ったということである。裁判員制度の治安対策としての有効性の是認である。
裁判員を経験してよかったとか、或いは、犯罪を他人事と思わないようになったという個人的収穫があったならば、裁判員制度の存在意義はあると言えるのだろうか。
矢を射る時に、的を目掛けて射るのは当り前である。空に矢を射るのは、遊びかご愛嬌であろう。アンケート調査の設問を作成する際には、何故にそのような設問を作成するのかの理にかなった確かな目的が必要であろう。この設問の的は何なのであろうか。
裁判員制度は、裁判員に人間の職務としての達成感を与えるための制度ではない。犯罪を抑止するための制度でもない。国民の教育のためでもない。裁判員法1条は規定している。「裁判員制度は、司法に対する理解の増進とその信頼の向上に資する」と。つまり、裁判員制度は、「司法はこれまでよりも分かりやすいものとなり、これまでの司法も国民から信頼はされていたが、一層信頼度が高まります。」と。裁判員が個人的にどのような感想を抱くのかどうかではなく、表現上は、司法が変わると謳っている。
裁判員制度は、これまでの裁判制度の大改革である。裁判制度の改革であれば、それが裁判制度の本来の目的に資するものか否かが、その改革評価の基準に据えられなければならない。
刑事裁判の本質は、刑事訴訟法第1条に定める「公共の福祉の維持と個人の基本的人権の保障とを全うしつつ、事案の真相を明らかにし、刑罰法令を適正且つ迅速に適用実現すること」である。裁判員法第1条は、この刑事裁判に関して「裁判所法、刑事訴訟法の特則を定める」とあるから、刑事裁判関与者、特に被告人の基本的人権の保障と事案の真相を明らかにすることとは一応関連付けられてはいる。しかし、裁判員に、「よかった」経験、人生においてプラチナチケットに当たったような貴重な経験を味あわせることが目的でないことは明らかであり、そのような経験を味わえるからどうぞ裁判員になって下さいなどと言える筋合いの問題でないことは明らかであろう。
〈最高裁判所の発問の真意〉
最高裁判所が裁判員経験者に敢えて答えの分かりきったような発問をする真意は、四宮教授が述べている、この経験者の「よかった」経験談が広く共有され、制度開始以来、出席率の低下、辞退率の上昇の続く傾向に歯止めをかけ、国民の多くが我も我もと裁判員を希望するようになることへの一縷の望みを抱いていることにあるのではなかろうか。裁判に参加することが宝くじに当たったような快感を与えることだから、くじに当たることを渇望し、くじに当たったら喜んで参加してほしいという願いをこめての発問であろう。
しかし、裁判に直接関与することは、国民に対し演し物を見るような経験をさせることを目的としているのではない。人間にとって快感を求めることは、確かに本能であろう。人を裁くことは苦痛ですよ、それでも人生にとって充実感を与えるものですよと理屈っぽく説いたら、多くの人はそのような行為に参加することをためらうことになろう。そのため最高裁判所は、「よかった」経験を毎年取りまとめて、四宮教授が望む「よかった」経験の共有に努めているのであろう。
〈消極的感想こそ重要〉
ところで、このアンケート調査の中で、「あまりよい経験とは感じなかった」、「よい経験とは感じなかった」と否定的な回答をした人が合わせて2.3%いた。前述のように、通常であれば人生の上で極めて貴重な経験であり、よい経験と受け止められるようなことについて、それとは反対の感想を抱いた少数の人々の感想の根拠は貴重であり、可能ならばその根拠を聞いてみたい。それはまた、重要なことではなかろうか。
「よかった」経験の感想の流布によって裁判員制度のPR効果を狙う立場にある最高裁にそのような追跡調査を求め且つその結果の公表を求めることは期待できることではないけれども、かかる参加経験へのマイナスイメージの分析は、単なる「よかった」経験の流布以上に、国民に対し裁判員制度についての正しい認識を与えることに貢献するかも知れない。
先に、裁判員として裁判に関与することが稀有の体験であり、「非常によい経験」、「よい経験」と感じることは、人間としては当然の感想であろうと書いた。しかし、前述の朝日新聞論壇に登場した女性裁判員経験者の「知識もないのに人の人生を左右する判断をしてしまったことに悩み苦しむようになった」と思うことは、裁判員制度の抱える本質的問題の提示であり、また、その女性の良心の呵責の表れと受け止められる。そのような感覚を抱く人もいるということである。