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 〈原発反対と個人の刑事責任追及とは別問題〉

 私のこの判決に対する上記の意見については、この無罪判決に批判的な人々やマスコミは、何を寝ぼけたこと言っているのだと批判するかも知れない。また、この危険な原発を容認するのかと憤る方もいるかも知れない。

 しかし、私は、原発の安全性を認め、その設置、稼働を容認するものでは決してない。私はこれまでも折に触れ原発の危険性を説き、その設置稼働に反対してきた原発反対論者である。核の平和利用などという甘言に惑わされて原発を各地に造ることを容認した政治家、学者、マスコミに対しては、強い憤りを抱いている。しかし、そのことと一市民たる被告人ら個人が刑事責任を負うべきか否かは切り離して考察すべきである。

 この福島第一原発の事故は、放射能という、煮ても焼いても食えない代物(私が以前聞いた故木村一治東北大学教授の話)、人類と共存できない危険極まりない装置の設置を認め、またこれを金儲けの手段とすることを容認した者らに最大の責任があると考える。

 かつて(1955年段階で)、哲学者のハイデッガーは、原子力の平和利用について「決定的な問いはいまや次のような問いである。すなわち、我々は、この考えることができないほど大きな原子力といった、いかなる仕方で制御し、操縦できるのか、そしてまたいかなる仕方で、この途方もないエネルギーが ―戦争行為によらずとも― 突如としてどこかある箇所で檻を破って脱出し、いわば「出奔」し、一切を壊滅に陥れるという危険から人類を守ることができるのか?」と説いていた(国分功一郎「原子力時代における哲学」晶文社p79に引用されている。)。この福島の原発事故は、スリーマイル(1979.3.28)、チェルノブイリ(1986.4.26)とともに、そのハイデッガーの危惧が正に現実のものとなったということである。

 原子力資料情報室という民間の組織を作り、最後まで熱意を持って反原発を説き続けてあまりにも早く亡くなられた高木仁三郎氏(2000年没)や、「はんげんぱつ新聞」の発刊者久米三四郎氏(2009年没)らがもしご存命なら、この現状を何と評するであろうか。


 スリーマイル、チェルノブイリ、そしてフクイチと、人間のコントロール不能な巨大事故を経験しながら、そして高レベル放射性廃棄物の処理方法も確立されず、且つ、一基の廃炉に40年余の年月と莫大な費用を要するとも言われている原発を、この過酷な事故の示す教訓から故意に目を逸らし、今なお原発をベースロード電源などと言って、原子力基本法を温存し、原子力規制委員会という名の原発推進機関を作り平然としている政治家ら、及び原発によって利益を上げ続け、設置自治体と不明朗な関係を築き上げている電力会社の存在を容認することは到底できない。


 〈野放しにできない事故の真犯人〉

 「失敗学」を提唱する東京大学名誉教授の畑村洋太郎氏は、朝日新聞(2019.10.18)のオピニオン欄で、「最近は原子力政策を進めた政府がおかしい、業界がおかしいという前に、自分の目で見て、自分でちゃんと考える国民がいなかったのが最大の要因だと思うようになりました」と述べている。

 民主主義国家においては、悪政の責任は究極的には国民にある。しかし、それを言えば、太平洋戦争の一億総懺悔論に通じ、結果的に誰も責任を問えなくなる。やはり、代議制民主主義の下では国民から政治を委ねられた者の国民に対する責任を曖昧にすることは許されない。単に東電の元幹部3人に刑事責任を押し付けることは、この原発事故の真犯人を野に放しておくのと同じことである。

 小泉純一郎元総理は、在任中の己の不明を告白し、今は熱心に反原発を説いている(「原発ゼロ、やればできる」太田出版)。

 原発の設置を容認してきた為政者、学者、マスコミなどは、最低限、小泉氏のように潔く己の非を認め、即刻全原発廃止に舵を切り、二度と過ちを繰り返さないことを誓い、国民に謝罪すべきであろう。

 これ以上、この美しい地球を汚し、破壊させてはならない。

 司法が民意と称される一部の素人の意見に左右されることは、裁判員制度を含め、決して正しいこととは考えられない。




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