司法ウオッチ<開かれた司法と市民のための言論サイト>

 

 〈結論ありきの論理〉

 
 要するに、その大法廷判決の掲記することは、裁判員法に定める国民の司法参加は合憲だという結論を得るために、それに都合の悪い論題は全て検討課題から除外し、合憲と判断し得る都合の良い論題のみを取り上げて、司法への国民参加は合憲だ、合憲の法律による評決制度に裁判官が従うのは違憲ではないと結論付けているものとしか解し得ない。なお、以下に大法廷が検討課題としたものについて検討してみよう。

 
 ㋑ なぜ刑事裁判のみが検討対象か

 
 大法廷判決は、先に、国民の司法参加の定義として、「裁判官以外の国民が裁判体の構成員となり評決権を持って裁判を行うこと」とする。その定義では、特に刑事事件に限定していない。裁判に一般市民が評決権を持って参加することが憲法上許容されるか否かを論じるときに、何故に刑事裁判の諸原則の検討が必要になるのか、何とも不可解という以外にはない。

 
 ㋺ なぜ憲法制定過程の検討が必要か

 
 大法廷は憲法制定の経緯の検討も取り上げる。何故に今から70年前の歴史を掘り起こさなければ真実に迫れないのか。憲法は、国民がその常識によって判断される文言で構成されている。その文言の意味を理解するときに、国民にその歴史をもう一度見つめ直して考えるべきだなどとどうして言えるのであろうか。「何人も、裁判所において裁判を受ける権利を奪はれない。」という文言は、誰もが、いざというときには裁判所に訴えれば正しい裁判をしてもらえる権利があると読むのが当たり前ではないであろうか。大日本帝国憲法がどう定めていたかに関係なく、我々は今、日本国憲法の下に生きている。その定める憲法の規定を上述のように誰もが裁判所に出訴できる権利を認めたものだと何故素直に読めないのであろうか。西野喜一新潟大学名誉教授の指摘にもあるように(「さらば裁判員制度」p181)、この憲法32条は、大法廷判決のような解釈を容認するために「裁判官」を「裁判所」という文言にしたのではなく、文字通り全ての人に裁判所への出訴権を認めた規定であることは間違いないのである(「憲法的刑事手続』日本評論社P234)。

 
 ㋩ 陪審、参審と民主主義との関係

 
 大法廷判決は、国際的な視点として、「民主主義の発展に伴い、国民が直接司法に参加することにより国民的基盤を強化し、その正統性を確保しようとする流れが広がり陪審制か参審制が採用されている」という。しかし、陪審は民主主義と直結して発生したものではないし、参審制は陪審制による弊害や不必要にコストがかかることからその変形として採用されたものであることは明らかである(「廃止論」P16)。

 
 民主主義憲法の最先端を行く日本国憲法制定時に、その制定に深く関わった陪審制を有する英米の指導がありながら、しかも大法廷判決にも示されているように、我が国にも陪審制度がありながら、日本国憲法には陪審制、参審制に関する規定或いはそれを容認する規定がどこにも置かれなったことについて、大法廷はどのような捉え方によって、民主主義に結び付けて国民の司法直接参加が裁判の国民的基盤やその正統性の確保の流れが広がり、などと表現したのであろうか。歴史の捉え方としても不正確であるばかりでなく、陪審制、参審制の正当性についての記述としても余りにも不正確ではないであろうか。

 
 陪審制、参審制のような司法への市民参加が民主主義の発展に伴って制度化されたものであれば、前述のように我が民主憲法に規定されなかったのは何故かの説得ある説明が必要であろう。そして、現在我が国の裁判の99%の裁判に市民参加がないことの正当性をどのように説明するのであろうか。



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