原審尊重で歪められる控訴審
控訴審制度は、今回の改革では全く手がつけられませんでした。司法研修所から出されている「裁判員裁判における第一審の判決書及び控訴審の在り方」と題された司法研究報告があります。また、東京高等裁判所刑事部総括裁判官研究会なるものが「控訴審における裁判員裁判の審査の在り方」を明らかにしています(判例タイムズ1296号2009.7.15)。
これらに共通するのは、裁判員の参加した裁判は国民の健全な社会常識が反映されたものであるからその裁判を尊重し、これまでは一審の当事者の主張・立証の枠組みに拘束されることなく自ら真相を追求するという姿勢をとっていたものを、事後審としての本来の趣旨即ち原審の判断を事後的に審査する立場を守り、独自に事案の真相を追求するという姿勢をとるべきではないという姿勢への転換が打ち出されているのです。
しかし、一審に裁判員の意見がどのように取り入れたかは、守秘義務の関係で知るすべはないわけですから、裁判員がただ頭を並べたというだけのことでしかないのに、控訴審がこれまで以上に原審尊重になるということは、事案の真相に一歩でも二歩でも近づく、被告人の言い分に真摯に耳を傾けるべき刑事裁判の本質からは、向かうところは逆になるのではないかと思います。
この点においても刑事裁判の悪しき変質を指摘できます。
被告人無視の拒否権否定
つぎに、被告人の裁判員裁判拒否権の否定です。これも司法審の打ち出した裁判員裁判の骨格の一つです。
「新たな参加制度は、個々の被告人のためというよりは、国民一般にとって、あるいは裁判制度として重要な意義を有するが故に導入するものである以上被告人が裁判員の参加した裁判体による裁判を受けることを辞退して裁判官のみによる裁判を選択することは認めないこととすべきである」と、司法審の意見書は記しています。
国民一般にとって或いは裁判制度として重要な意義を有するというのは、意見書の文脈からすれば、司法への国民の主体的参加を得て司法の国民的基盤を確立するということを言いたかったのでしょうか。表向きはそういうことでしょう。
しかし、先に述べましたように、国民にとって裁判員制度とは何かと言えば、国民の調教手段そのものであり、裁判制度としての裁判員制度は、被告人の基本的人権の尊重、事案の真相の追求という刑事裁判の本質からすればそれに背反する毒薬と表現してもおかしくないものです。それが重要な意義だとは到底言えません。
個々の被告人のためではない刑事訴訟の変革ということは、公平な裁判所ということを念頭においていないものであり、被告人を無視した議論です。そして、制度化されたものは、前述のとおり、公判前整理手続き、事件滞留、控訴審の変質など正に被告人の立場無視の現実となってあらわれているのです。
裁判への市民参加の典型である陪審制は、被告人の権利であり、被告人がこれを回避することが可能なことは周知のとおりです。我が国の陪審法が被告人の選択によって行われていたこともよく知られていることです。その後の制度運用について冤罪が多いことが指摘されていますが、詳しい現実がどうなっているかは分かりませんが、理念的には、裁判への市民参加というのは被告人の人権の保障にあるのです。
ところが、我が国の裁判員制度は被告人のためのものではないというのですから、いかに異形のものであるかは明らかだと思います。