〈はじめに〉
裁判員制度については、批判や反対意見はあっても、施行後5年余、曲りなりにも制度が施行、運営され、表面上は、社会はこれを受け入れているように見える。それは何故か。恐らく、制度もその一つである文明というものの本質・業と言えるものに由来するものであるからかも知れないが(拙著「裁判員制度廃止論」花伝社p62)、現実的には、本来権力に対し批判勢力であらねばならないマスコミの無気力、司法権力の行使に関わる分野については常に批判的視点に立って注意深く対応すべき日弁連がそれを無批判に支持、推進する側に回っていることが大きく作用しているのではないかと思われる。
平成23年11月16日最高裁大法廷が裁判員制度合憲判決を示し、今や裁判員制度を批判してもどうにもならないという意識が、この制度に対し当初批判的意見を述べていた者の間にも広まっているように思われる。私は、先に前記大法廷判決を3度に亘って批判した(前掲拙著p130、p198等)。特に最後に述べたことは、裁判員制度が憲法18条、76条3項に違反しないとの判示については、上告趣意を捏造してなされた何ら判例としての価値のないものであるというものである(「司法ウォッチ」2013年12月~2014年3月)。
また、同判決の判示は全く説得力のない国策判決であり(西野喜一「裁判員制度合憲判決にみる思想とその問題点」新潟大学「法政理論」44巻2、3号参照)、それ故、裁判員制度についてはもう批判してもどうしようもないというような諦めの境地に立つべきではなく、その制度の問題についてはさらに検討し、批判を継続して行くべきではないかと考え、今回は国民主権と司法権という今までとは違う視点から論じてみることにした。関連する問題については、前掲拙著(p135以下)でも論じたけれども、さらにその点を補充しようとする意図もある。
〈国民主権の実質化〉
日弁連のホームページの裁判員制度に関連するところを開くと、「どうして市民が刑事裁判に参加するのですか?」という質問があり、その回答の中に「市民の司法参加は国民主権を実質化し」という言葉が出てくる。その意味は、そのあとに「市民の、市民による、市民のための裁判を実現することによって、司法に対する理解が深まり、信頼が高まることが期待されます」という文章が続いているところから推察すると、必ずしも判然とはしないけれども、かのリンカーンのゲティスバーグ宣言をそのまま司法に置き換え、市民が司法に参加することは「市民による司法」を実現することになり、これこそがそれまでは名ばかりだった国民主権を実質化することになるのだということのようにとれる。
国民主権の原理は、絶対主義時代の君主の専制的支配に対抗して、国民こそが政治の主役であると主張する場合にその理論的支柱とされた観念だとされる(芦部信喜「憲法」第5版p39)。
明治憲法を経て日本国憲法が施行されてからも、我が国の司法は職業裁判官によって担われてきた。戦前一時期採用された陪審裁判も、その実質は職業裁判官の優位の下で認められたものであった。明治憲法下の制度はともかく、現行憲法の下における職業裁判官による裁判は、市民による裁判ではないから、国民主権の実質化されたものとは言えない、裁判員として一般国民が裁く立場に立つことによって初めて市民による司法と言えるものとなり、それが司法における国民主権の実質化と称し得る、これが日弁連の言いたいことなのであろうか。しかし、かかる捉え方は正当であろうか。本稿はそれを根本的に批判し、その誤りを正そうとするものである。