司法ウオッチ<開かれた司法と市民のための言論サイト>

 

 この国にじわじわと広がる嫌なムードを象徴するようなニューズが流れている。宮城県柴田農林高校(宮城県柴田郡大河原町)の社会科学部が文化祭での発表を予定して全校生徒対象に行った安保法に関するアンケートに、「不適切」などとクレームがついて、発表中止に追い込まれた、というものだ。

 
 報道やネット上に流れている内容によれば、顧問教諭が作成指導に当たった同アンケートには「安保関連法(戦争法)の目的は米国が行う戦争の肩代わりと言われるが、どう思うか」といった設問があり、「政治的中立を欠く」というクレームが寄せられた。いずれもPTAからのものではなく、外部からのものだったという。これに対して、学校側は文化祭での発表を取りやめさせたうえ、校長名で「政治的中立性を欠く不適切な表現だった」との文書を生徒に配り、県教委も県内の公立高校長らに政治教育の中立性確保に留意するよう促す通知を出した、という話である(11月6日付け河北新報 「きょういくブログ」)。

 
 もはや私たちの国は、政権の意向に反するテーマは議論することも、問題提起することもできない国になっているのか、と愕然とする。保護者たちの問題意識によるものではなく、外部からのクレームというところ、「圧力」を読みとり、むしろ「政治的」な意図をみることも容易である。

 
 問題はいうまでもなく、当事者たちをひれ伏させようとする「政治的中立」というワードにある。なぜ、いま「中立」という言葉が、一見して分かるような「圧力」に使われ、議論は封殺されようとしているのか。報道をめぐって安倍政権下で度々繰り出されてきたこのワードは、私たちの想像を超えた広がりをもって、この国の政治的言論封殺への効果的な武器と化しつつある感を強く持つ。

 
 安保法制で私たちに問われたのは、まさしく「憲法」である。戦争も平和も、人権も、手続きも、そして教育も、すべて憲法を基準として、そこからはみ出ているのか否かの検証・議論をしなければならない。憲法を持つ、この国の人間として本来、「中立」は、ここになければならないはずである。この検証が許されない、議論はさせないという、という中立はあり得ず、むしろそれを犯そうとすることが極めて「政治的」とみなされて当然なのである。

 
 ところが、既にこの国では、遵守義務を負っている人間たちが、真っ先にいとも簡単に憲法を軽視するという事態が現実のものとなっている。憲法が介入できない、上位の領域が存在し、そこに触れれば直ちに「弁士中止」のごとく、前記憲法に照らした議論を封殺しようとする。政治的に政権に都合の悪いことは、「中立」というワードが効果的に、憲法に照らそうとする国民の目隠しとなる。

 
 憲法に忠実であろうとする「中立」を、政治的目的の前には犠牲にできるということが、「政治的中立」批判の意図するところであり、それに屈服することはこの社会がそれを是認することである。ただ、そうした時の政権の政治的意図の前に憲法が機能しなくなったとき、この国がどうなるのか。私たちの過去への強力な反省のうえに、作られたこの憲法の意味を考えれば、全く説明するまでもなく、多くの国民が理解しているはずのことである。安保法制の議論は、まさにそこに触れたのだ。

 
 弁護士会という専門家集団でさえ、時に「政治的中立」という言葉の前に、「人権擁護」という、決して譲ってはならない基軸の検証テーマについて委縮・沈黙するような現実まで登場していることをみれば(「金沢弁護士会、特定秘密法反対活動『自粛』という前例」)、このムードがまさに今この国に形づくられようとしている「体制」を意味しているのではないか、という危機感を持つべきだ。それと同時に、安保法制問題では逆に憲法に忠実に筋を通そうとした専門家の知見が、その「体制」に向う「政治的」な政権の意図によって、どういう扱いを受けたのかも、私たちは決して忘れてはならない(「9月19日の『屈辱』」)。

 
 「中立」という言葉の正当なイメージに引きずられ、ここで黙ること、議論しないことが偏向への道の歯止めのようにとらえるムードが広がっているとすれば、そのことが最も恐ろしい予兆とみるべきである。変な言い方になってしまうが、なるほどこういう形で、平和も民主主義も、きちっとした世界に誇れる憲法下で踏み外されていくのか、ということに私たちは今こそ気付かなければならないはずだ。



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