8月8日に発生した宮崎県南部で発生した最大震度6弱の地震以降、突如浮上した南海トラフ地震への警戒感。もちろん、それは気象庁が同地震の臨時情報「巨大地震注意」を制度創設以来、初めて発出したことによるし、そもそも同地震自体、いつ来てもおかしくないという認識は、それなりに国民に広がってはいた。そう考えれば、この警戒感の広がり自体は、当然の帰結のようにとれる。
しかし、その一方で、「向こう1週間以内にM8クラスの地震が発生する確率は約0.5%」といった、今までになく、リアルに感じられる期間や数値が伝えられたり、コロナ禍の緊急事態宣言下を思わせる、高速道路などでの注意喚起の電光掲示板の文字、さらに徹底した一部電車の減速運転の現実。それらを見るにつけ、その社会一体となったある種の演出にも見える状況に、違和感を覚えた人も少なくなかったようだ。
それは、一つには地震の発生が今回に限って、どうしていつになく予想できているかのような伝え方がされているのか、という点もある。国家の発表や専門家の知見に対し、一定の数の国民は、疑うことなく、自らが理解し得ないなんらかの根拠をそこに読み取り、思考停止するということはある、といっていいかもしれない。だから、今回の事態に対しても、受け取り方はさまざまだろう。
それを踏まえたうえで、あえて前記違和感の正体に迫ってみると、今、ネット空間に溢れる声の中で、ある言葉に突き当たる。
「社会実験」
つまり、国民はある事態に対する反応を試されている、要は意図的に提示した情報によって、データをとられているのではないか、ということである。もちろん、これはかっちりした裏付けがある話とは言えない。ただ、少なからぬ国民が、同じことを感じ取っている。時期が時期だけに、同月15日に大阪で発生した原因がはっきりしない大規模停電にも、同じ目線を向けている人がいる。
大規模な社会実験には、当然、国民の心理、行動がどのような反応を示すのかを国家があらかじめ把握する目的が考えられる。ここでも国民の評価は分かれ、これをいざという時の混乱を抑えるため、とか、その備えを考えておくため、といった、その目的をあくまで肯定的にとらえる人もいる。国民に事前にそれを伝えないのも、むしろ正確なデータ取得のためだ、と。
ただ、いうまでもなく、そうした括りで片付けられないという見方もある。それは、国家がある意図をもって、繰り出している耐性実験であるととらえるものだ。多くの場合、ある政策実行に伴い、国民に課すことになる制限、制約に対して国民がどういう反応を示すのか。つまり、一義的に国民のための備えではなく、政策実行・実現のための備えが目的ということになる。
確かに近年の日本では、時々、そうとれるものに出会うようになっている。東日本大震災時の計画停電、北朝鮮からのミサイル飛来情報、そして前記コロナ禍での緊急事態宣言、さらに制度的なことをいえば、様々な理由を掲げながらも、憲法にない義務を国民に課す裁判員制度導入も。原発存続や有事体制、対パンデミック(名目を含め)、さらにはその裏にはびこる利権構造まで、その向こうに透けて見える狙いは違っても、どれも国民の反応をとらえる価値が、国民による選択というよりも、国家やそれと一体となった権力者の選択と実現に大きく寄与するもののようにとれる。
こう考えてくれば、私たちの善意解釈や思考停止がいかに彼らの真の意図、つまりここから先に描いているものを隠すのに、都合よく働くのかがはっきりする。そしてその反応も、さらにはそれに対する、国民の中に生まれる疑問・疑念に対して、同じ国民が例えばそれを陰謀論のように扱い、つぶしてくれるのかまでが、彼らが気になる実験結果なのではないか、という気がしてくるのである。
一つ恐ろしい想像が、頭を過る。地震は、もとよりいつ起こるか分からないし、いつ起きてもおかしくない。だから、社会実験が行われている時、必ずしも発生が迫ってなくても、あるいは注意喚起の予想が外れても(というか予想できない建て前だったのだが)、後付けの弁明ができるというヨミがあるなかで、本当に大地震が発生してしまったならば、どうなるのだろうか。
その時に、その結果を深刻に受け止め、予想が当たったことを一定限度評価すべき、ということは当然言われるだろう。予想によって助けられた、と。しかし、不謹慎な想像と言われるかもしれないが、それと同時に、社会実験とかその先の狙いといった見方は、後方に押しやられ、逆におよそ政府発表をうのみにし、固く信じ、思考停止する世論に大きく傾斜した社会になっていくのではないだろうか。
そして、これもまた不謹慎な言い方になるかもしれないが、それは彼らが進めようしている真の意図には、極めて効果的なものを与えることになる可能性までが考えられてしまうのである。