司法ウオッチ<開かれた司法と市民のための言論サイト>

 

 今回の司法改革を振り返ると、いたるところで「負担」ということが、問題になってきたことに気付かされる。有り体に言えば、どこでもぶつかり、議論のテーマとなり、避けて通れない、この「改革」のキーワードになっているといっていい。

 

 いうまでもないことかもしれないが、例えば、新法曹養成にあっては、修了が司法試験の受験要件となった法科大学院という、プロセスの強制化が、志望者たちにとって時間的経済的負担としてのしかかり、法科大学院離れとともに、法曹志望者減という事態を引き起こした。司法修習生の給費制を、いわばこのプロセスを経済的に支えることを優先して、貸与制に切り替えながら、深刻な志望者減の前に、負担軽減を考えざるを得なくなり、結局、給付制として事実上、給費制を復活させるような方向に舵を切ることになった。

 

 もっとも給費制の存在を、負担軽減の問題としてとらえるのは、本質論ではないともいえる。「法曹一元」を悲願とし、「統一修習」にこだわってきた弁護士会であれば、国家によって法曹三者が育成されるという、貫くべき本質論もあったはずではあった。結局、「改革」の、いわばご都合的な負担軽減論に巻き込まれてしまった、という見方はできる(花水木法律事務所「給費制は二度死んだ」)。

 

 弁護士増員をしても、需要は顕在化せず、生存をかけた負担が彼らにのしかかったといえる。いくら資格は生涯の生活保障ではないとか、これまでが恵まれ過ぎていたとか、サービス業としては当然と括ってみたところで、経済的に安定し、恵まれていたことが、この世界を志すものにとって、資格の経済的妙味であったことは否定できず、資格の価値は下落し、前記志望者法曹界離れの根本原因を作った。リターンが見込めない資格であれば、なおさら新プロセスは志望者にとって、重い時間的経済的負担であることは否定のしようがない。

 

 裁判員制度は、この「改革」のなかで、初めから国民に負担として認識され、背を向けられた制度だった。民主的制度とか、諸外国例とか、「普段着のまま」とか「裁く」ことへの抵抗感をなくすような話とか、様々な作られたロジックやイメージ作りが、大マスコミを含む推進派によって繰り出されたが、国民の負担感情を含めた敬遠意識は変わるどころか、明確になり、出席率低下と辞退率上昇が続いている。一方で、裁判員の心理的負担の解消が問題となり、裁判の在り方としては問題も指摘されている証拠調べでの「配慮」まで検討せざるを得なくなった。

 

 そして、さらにいえば、この「改革」は、実は司法の利用者の負担に配慮しているものとはいえない。司法が「身近」になったり、「利用しやすくなる」というイメージを推進派が振りまいても、厳格な資格による質の保証よりも、資格者の大量放出と競争・淘汰に良質化を委ねている「改革」の根底にあるのは、最終的に利用者の自己責任への丸投げである。情報の非対称性が存在するなかで、弁護士を適正に市民が選べるという酷な前提に立つ。逆に言えば、立つという前提だからこそ、推進論者は競争と淘汰が適正に行われるという、これまた前提に立っているのだ。

 

 司法改革に限らず、「改革」の名の付くものは、すべてどこかが負担を負うという人もいるかもしれない。しかし、司法改革では明らかに、さまざまな場面で、「負担」というテーマが改革そのものの足を引っ張るものとしてのしかかり、既に「失敗」と烙印が押されるところまで引きずり降ろし始めている。「負担」が「改革」がもたらす、より大きなメリットのための、ある意味、価値ある犠牲として成り立つと考えるのであれば、司法改革では決定的にそれも見えない。どこにこの負担による、「改革」の良化のメリットを見ればいいのか、それが見えないのが司法改革の現実なのである。

 

 なぜ、こうなっているのか、ということは、もはや言うまでもないことだろう。「改革」の設計者と推進者は、ひとえに「負担」を甘く見積もったのだ。法科大学院制度という新プロセス強制も、給費制廃止も、国民の裁判への直接参加の強制も、弁護士の激増政策も――。

 

 後付けのように、「負担軽減」を延々と繰り出さなければならない「改革」に、本当に当初描いたような展望が持てるのか、と考えるのは当然のはずだが、そもそもその前提となるはずの、前記したような「改革」と「負担」をめぐる認識に推進論者が立てるのか、そこかがまず問われているといわなければならない。



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