法科大学院制度は、「失敗」とされる現状につながる、いくつもの「無理」を内包していたといえる。つとに指摘されてきたのは、例えば未修者教育の無理。法学未修者教育を原則とし、既習コースと1年差の3年間で司法試験合格レベルの修了者を輩出するという設計は、どのように換算すれば可能と見積もれたのかが問われたが、案の定の成果を上げられなかった。
しかし、これと併せて、もっと構造的な無理としていわれたのは、法曹養成プロセスとしての法科大学院制度の位置取りの無理だ。法曹として必要な知識や能力を身につけるための機関が、司法試験という関門の前に設定されていることは、それが経済的時間的負担(先行投資)を志望者に強いる点と、司法試験合格を当然に志望者が意識しなければならない点で、妥当性が問われ続けてきた。
いうまでもないことだが、合格しなければ、経済的時間的投資は無駄になるし、合格という最優先課題を抱えながら、じっくり前記した法曹になるための教育を受けることは、志望者の意識としてできるのか。少なくとも、この点で、法科大学院がその理念に忠実に成果を上げようと思えば、当然、合格後にそのそのプロセスを持ってくる方が、はるかに適切で問題が少ないはず、という話である。
この無理は、「一発試験」と批判した旧司法試験との違いを強調するあまり、受験指導を禁じる建て前の無理を当然に浮立たせる結果ともなった。しかも、制度は、もともと法曹の大量増員計画を実現するうえで、旧試体制のような「受験技術偏重」が続けば、質の確保・向上は困難という建て前でありながら、当初の予定に反し、司法試験合格者を出せないという実績を示してしまった。
このことは結果として、司法試験合格率さえ維持できていれば、あるいは司法試験側が対応を考えていてくれれば、といった意見が、今でも法科大学院関係者・擁護派から、志望者獲得という点で言われることにもつながっている。しかし、それでは法科大学院教育は法曹教育として現に意義があるが、既存法曹がパスした司法試験のレベルではない、ことを認めさせようとするのと同じである(もっとも、これまた現に、現行司法試験が「異常に」難しいとする論調も展開されているところだが)。いずれにしても、これとて法科大学院が司法試験合格者に教育する機関として制度設計されていれば、起こりようがなかったといっていい問題だった。
しかし制度は、そういう道を選ばなかった。その最大の理由は、旧試の時に存在した大量の法曹志望者を対象にすることの、大学としての経済的妙味にほかならない。目標だった年間3000人の合格者に対する教育を全国の法科大学院が担うというのでは、その妙味はあまりに違い過ぎる。現在のように、司法試験前に法科大学院が存在するにしても、本来、入学に当たって厳しい関門を課す形であれば、司法試験合格率も含めて、この制度に対する評価は今とは全く違うものになっていたはずだが、それも前記と同様の理由で、この制度の選択肢とはならなかったのである。
つまり、これは法科大学院の理念としても、法曹養成の在り方としても、本来、望ましい形を選択できない、望ましい形から忠実に逆算して存在できない、という、これもいわば、法曹養成を大学運営に委ねた、この制度の「無理」といっていいものなのである。
法科大学院制度は、教育的な「価値」が示せれば、本来司法試験の受験要件化という強制化を外してもいいはずであるといわれてきたが、大学側にとって強制化を外すことは、事実上制度の廃止を意味するととらえられている。強制化しなければ選択されない、という脅威は、とりもなおさず、「価値」で選択されることへの制度の自信のなさを示しているといわなければならない。強制化によって、旧試同様の志望者獲得を目指した制度は、その自信のなさが暗示した通り、強制化とは関係なく、「価値」で志望者に選択されない、という現実を引きよせてしまった。
今月13日、近畿大学法科大学院が学生募集停止を発表したことで、当初立ち上げの74校中、半数の37校の撤退が確実となった。制度は志望者回復を目指して、「5年法曹一貫コース」など時間的負担軽減を模索しているが、制度の無理を直視した議論には踏み込めているようには見えない。制度存続が目的化するなかで、法曹養成は依然、先の見えないところに迷い込んだままだ。