「検事は、だまされ、だまされて成長する」といったのは、故・伊藤栄樹・元検事総長である。彼は、著書「だまされる検事」のなかで、自らの検事任官1日目に味わった、苦い経験を告白している。
ビル荒らしの犯人として、東京地検調室に連れて来られた男が犯行を素直に認めているところに、赤ん坊を背負った妻とみられる女性が泣き込んでくる。「とうちゃん、どうしてこんなことをしてくれた」「すまぬ、魔がさしたんだ、もうお前たちにはめいわくかけぬ」。このやりとりに、若き伊藤検事は、先輩から教えられた「起訴猶予制度の効用」を胸に、今回は勘弁すると即決し、将来を戒めたうえで釈放。ところが、男は二日後、手錠をかけられ、先輩検事の調室へ。その男、実は連続200件ものビル荒らし窃盗団の首領で、今回の釈放後、再逮捕。泣きを入れた女は、妻でもなんでもなく、赤ん坊ともどもカネで雇われての芝居だった。
窃盗団の首領とは知らなかった伊藤検事は、「なぜ、教えてくれなかったのか」と、警察の主任に電話するが、釈放と聞いて、あのような大泥棒の調べはやはり新任では無理と考え、検事を換えてもらうために再逮捕した、という答えが返って来るだけだった。
本人の更生を期待して、起訴猶予にしたもののなかには、結果的に検事が騙されてしまっているケースはある。でも、検事はこの制度に生きがいを感じ、時に騙されながらも日々運用している、というのが、彼のいう成長過程である。若き日の教訓から老練の検察官が語る、この話は、「騙される」ということが、ある意味つきまとう、どうしても避けられない事柄でありながら、検事が成長するうえで意味があるということ、検事の人間として修養がそこにあるといった響きを持って伝わるものだった。
彼は続刊の「また だまされる検事」のなかで、もう一度、このエピソードに触れ、これらのだまされることが、例外なく被疑者を勘弁する、軽い処分ですませる方向に作用している、いわば「フェール・セーフ」であることが救いであり、「だまされた結果、罪のない人間を起訴するようなことがあっては大変である」としている。
ただ、これを今読むと、被告人をなんとしてでも有罪にするために、証拠を改ざんまでする検察官の姿を目にすることになっているわれわれからすれば、どうしても伊藤氏の言葉に、何か遠いものを感じてしまう。今、問題になっているのは、真実であるかどうかよりも、有罪にすることを目的に、「だまされる」ではなく、裁判官と社会を「だます検事」であり、私たちはまずそのことを心配しなくてはならなくなっているからだ。「だまされ、だまされて」ではなく、「だまし、だまされて」、組織のなかで成長する、の間違いではないか。そう思っている人も少なくないはずである。天国の伊藤氏は、どんな気持ちで、現状を眺めているのだろうか。
ところで、被告人の「真犯人告白」で急展開のPC遠隔操作事件で、「だまされた弁護士」が話題になった。「見抜けなかった」という点を取り上げた、厳しい意見もある。だが、いうまでもなく、仮に今回の事態がおこらず、被告人が「無罪」になったとしても、検察側が決定的な証拠を示せなかったことになるし、今回はたまたま保釈中の出来事によって事態が動いたとすれば、検察はそれに助けられただけ、ということである。弁護士としては、いかにつらいケースではあっても、やるべくことをやった、としかいいようがない。
むしろ、今回、「だまされた弁護士」と、最終的に勝利しようとしているようにみえる捜査側に目がいくが、このなかで警察は4人を誤認逮捕、うち二人を取り調べで自供まで追い込んだ事実を忘れてはいけない。「だまされた弁護士」よりも重大な、とても「フェール・セーフ」とはいえない現実が、そこにあったのである。
検察官にしても、弁護士にしても、「だまされた」ことは「成長」につながるといえても、「だました」ことは厳しく戒められなければならない。私たちがどちらを重く見みなければいけないのか。いまだ実現が危うい取り調べの全面化の帰趨も含めて、そのことは、「だまされた」り、「だまされそう」になった私たちと社会の、「成長」にかかわるはずだ。