「翼賛」という言葉は、戦後生まれの人間にはなじみのあるものではない。どこか現代では使いにくく、古臭く、暗い印象を受ける言葉である。
意味自体は、「力を添えて助けること」だが、もともとこの助ける対象は、主に天子=統治者を意味するともいう。しかし、なんといっても、現代において、この言葉の負のイメージを決定付けているのは、かつてこの国に存在した「大政翼賛会」だろう。
大政翼賛会は、昭和15年(1940年)、第二次近衛内閣の下で組織された国民統制組織である。この組織立ち上げに至る動きの中で、キーワードのなったのが「新体制」だった。同内閣が打ち出した「新体制確立」は、既成政党を超越した広範な政治勢力の結集を呼びかけ、挙国一致体制に向け、時局渋滞から脱する活路として、社会の各方面に受け入れられたスローガンとなった。
この下で、各種団体の解消・統合は進み、やがてそれは大政翼賛会として結実していく。ここで登場した「翼賛」とは、まさしく「オールジャパン」の上から作られた「改革」協力体制を意味した。
「憲法が議院内での討論の自由や議員の身分を保護しているのに、保護のない院外で、まずその人の意見を決定させることは憲法の精神に反する」。
こう言って大政翼賛会に反発したのは、のちに東久邇宮内閣で司法大臣を務めることになる岩田宙造だった。彼は憲法と、言論の自由と、そしてなによりも非強制にこだわり、多くの議員が同会になびく中、この点で筋を通した。
ある日、憲兵が彼のところにやってきて、「なぜ、翼賛会に入らないのか」と問うたのに対し、彼はこともなげにこう言ったという。
「別に理由なんぞない。現状のまま、じっとしていたいんだから何も理由はないよ」
「新体制」も「翼賛」も、それが何を意味するのか、当時の国民がどこまで正確に理解していたのかは分からない。ただ、これらは大衆のなかに広がり、この言葉をかぶせた「改革」は強行された。御一新気分だけが、幻想をベールに包み、社会の焦燥感を取り払った。「弁護士よ正業に就け」という言葉が、弁護士の精神を痛打し、弁護士会は沈黙し、やがて国家目的に協力する「大日本弁護士報国会」の発足に至る。
それから60年後、2000年代に入った法曹界では、「司法改革」の熱気が頂点に達していた。その中で、弁護士会の一部から聞こえてきたのが、この「翼賛」という言葉だった。こうしたとらえ方や時代認識を杞憂と笑う人もいるなかで、この「改革」の方向を憂う人々からは、「改革」への疑問の声に耳をかさず、はじめに「オールジャパン」の協力ありき、のムードのなかで進められたこの「改革」、あるいは弁護士会内の議論や意思決定の在り方に、この言葉をあてがうのにふさわしい危機感を感じていたのだった。
統治客体意識からの脱却という、とらえ方とともに、統治者=国民による、国民のためと規定された「改革」は、国民を強制的に動員する裁判員制度や、弁護士を量産することで弱体化を招く法曹人口増員政策など、国民にとって危険視されるべき「改革」を、国民への期待と結び付けて描いた。その結果は、10年後の今、いくつものほころびを伴い、ある意味、その正体を現しているといっていい。
国民の焦燥感は、「改革」を魅力あるものに見せ、また「上から」規定する「改革」はまさにその焦燥感を利用するかもしれない。そのなかで、「オールジャパン」の協力ありき、のムードこそ、彼らが懸念した通り、何度でも「翼賛」という言葉をあてがって見る必要がある。また、そこでは岩田のような勇気ある非協力もあるいは選択されるべきかもしれない。
改めて「改革」が問い直されようとしている今、国民としてはまず、そのことを肝に銘じておくべきだと思う。