裁判員裁判に参加する裁判員の心理的負担を考慮して、証拠の遺体写真を加工する――。このことの是非が、なぜ議論の対象になるのだろうか。そのこと自体、正直、不思議な気持ちにさせられてきた。「裁く」人間がその写真を見てショックを受けて判断ができなくなることと、その証拠を見て裁判が厳格に行われることを、測りにかけて、前者への配慮の前に、後者を譲るなどということは、およそ考え付かないからだ。
もちろん、これが裁判員制度、とりわけ素人市民の参加の意義を重くみた結果であることは分かる。しかし、裁判の目的は、一体、何なのか、と問いたくなる。市民参加という形をどうしても崩さないために、裁判としては、あり得ない妥協をしているとしかとれないのである。
市民の常識を反映させるという制度で、果たしてこのことはその常識とくくれることなのだろうか。
三重県朝日町で2013年8月に中学3年の女子生徒(当時15歳)をわいせつ目的で襲い、窒息死させ罪に問われた少年(19)の津地裁の裁判員裁判で、裁判員が目にする証拠の遺体写真の一部が白く塗りつぶされていたことに対して、女子生徒の父親が「遺族としては、裁判員にありのままの状況を見てもらいたかった」と強い不満を表明したことが報じられている(3月10日、産経WEST )。遺族側は証拠写真の加工はしないでほしいという上申書を地裁に提出していたともいう。
これは、必ずしも遺族感情だけのことではないと思う。裁判に提出される証拠を加工しての判断を許されるという判断に立つと、多くの市民が捉えるという根拠はないし、とりわけ裁判員制度のために、市民参加を押し通すために行うことを、多くの市民が支持するとも思えない。端的に言って、果たしてそこまでする価値を、市民参加に求めるだろうか。
これは、制度を推進する側にとって非常に不都合な論点になる。裁判の正確性、厳格性に対する市民の期待にこたえることが、直接、裁判員制度の無理を浮き彫りにすることになるからだ。いうまでもなく、職業的自覚によって、その状況を選択している裁判官だからこそ、この厳格な判断に必要なプロセスに耐えられるし、市民も当然、そこをプロへの特別な期待としてとらえても、なんら不思議はない。それは、逆に強制した素人の無理という現実を浮き上がらせてしまう。これは、制度を推進する側からは、極力回避しなければならない危険な発想になる。
厳格さを生かし、参加市民の耐性という方に、焦点が移ると、今度はランダム抽出で強制している制度がぐらつく。あらかじめ予想される証拠調べを考慮して、裁判員を選任の段階ではじく作業はもちろんとられておかしくないが、「自分は大丈夫」と手を挙げる人間だけに裁かせるという形は、「だれでもできる」や「普通の市民の声を反映させる」といってきた制度と離れていき、それでは志願制でいいではないか、という話にもなる。
従って、証拠を加工してまでの参加市民配慮が、基本路線となってしまう。これは、加工しても許される、要はそのこと自体で、そのまま見せた場合と裁判員の結論が変わらない範囲の加工が存在するという前提に立っている。その加工の影響、それによってどのくらい心証に変化があったかなかったかは、外部の人間はもちろん、裁判員自身も判断できない。そうだとすれば、なおさらのこと、加工しないものを判断材料にすべき、という市民の選択になっておかしくない。
結局、裁判員裁判維持と、あるべき裁判はどちらが大事かという、ある意味、問うのも馬鹿馬鹿しい問いかけになる。裁判員制度の導入を強行したいあまり、この間、推進派から発信された前記「だれでも」とか「気楽に」という市民参加へのメッセージが、裁判官ならば本来、熟知しているはずの裁くことと厳粛さを正面から伝えてこなかったことへの批判的な声は、法曹界のなかにもある。加工した証拠で裁くべきではない、という、市民が裁判に厳格さ、厳粛さを求めておかしくない、この問題に対して、示されている当局の姿勢もまた、この制度の無理と矛盾を象徴しているといわなければならない。