選挙を評価するうえで、マスコミに登場する「ワンイシュー」という言葉は、いまや完全に否定的な意味で使われているように見える。候補者が提示するそうした問題提起が、むしろ候補者の当選に都合がいい、まさに一点突破的なものという扱い方で、「問題はそれだけじゃないはず」という意識を有権者に目覚めさせる意味でも、これは警戒感の喚起といっていい。
今回の都知事選の結果は、当初、有力視された候補が掲げた「原発即時廃止」の主張を、都民が「ワンイシュー」と否定的にとらえたものという見方がされている。「ワンイシュー」の選挙といえば、必ず挙げられるのは、2005年の小泉純一郎元首相の「郵政選挙」。都知事選の舞台にも、前記有力候補者の応援者としての彼の姿を見たとき、誰もがあの大勝をもたらした「ワンイシュー」選挙の再現を連想したが、そうはならなかった。
それを現出させた主役は、大マスコミだったといっていい。要は前回の「小泉劇場」大演出の反省である。今回の都知事選で、当初こそ、小泉氏の登場を大きく取り上げた大マスコミも、その後の選挙期間は極めて抑制的であったと同時に、「原発」というテーマに対して、前記否定的な「ワンイシュー」を投げかけた。都民の抱える問題は「原発」だけじゃない、いや、むしろこれは国の問題であり、都知事選で「原発」が掲げられるのはどうなのか――。そういう意識とともに、「ワンイシュー」選挙への警戒感が、有権者都民に広がったように思える。
ただ、一面奇妙な気持ちにもさせられる。片や衆院選、片や自治体首長選挙の違いはあるが、「郵政民営化」で通用した「ワンイシュー」選挙が、「原発」では通用しない現実である。そもそも「原発」は「ワンイシュー」、あるいは優先順位トップに値しないテーマではない。福島原発事故の際に、多くの都民の頭によぎったはずの、首都放棄のリアリティを忘れたわけでもあるまい。「原発」がおかしくなれば、否応なく、他の政策どころではなくなる。都民の生命・財産に直結するテーマのはずだ。百歩譲っても、「郵政民営化」よりも、「ワンイシュー」に耐え得るテーマである。
しかも、「郵政民営化」の中身について、国民は「原発」問題のリアリティよりも、格段に理解していなかったことも明らかだ。もっとも、「原発」については、逆にむしろ国民が「郵政」に比べて、マスコミ報道を通じて、問題をよく把握し、ネット上などでも賛否がはっきりと分かれているがゆえに、「ワンイシュー」にならなかった、という分析もある( 「ネット選挙時代に『ワンイシュー選挙』は可能か?」)。
だとすれば、「ワンイシュー」以前に、都民が「原発」問題の優先順位を下げている、あるいは切り捨てている、という評価につながる。ただ、この見方にすんなり乗り切れないのは、ここでも大マスコミが主役だったのではないか、と思えるからにほかならない。つまりは、とても「ワンイシュー」として通用しないテーマを通用させたのも、十分通用させられるテーマを通用させなかったのも、彼らの取り上げ方ひとつではなかったのか、ということである。
実は、ここに私たちにとって、極めて重要な問題が隠されていると思う。選挙において、いくつかの政策を総合的に判断して選択肢なければならない私たちは、当選優先順位をつけなければならない。ある候補者のある政策に賛成でも、ある政策には反対。こうなることを十分に想定できる候補者が当選しようと思えば、当然、賛成される政策の重要度を挙げ、反対されるだろう政策のそれを下げなければならない。
もちろん、選択機会ということでいえば、有権者が常に冷静に、的確に選択すれば、いいということにはなる。ただ、有権者はともすれば、より生活に差し迫ったテーマを重要視し、そして分かりにくいテーマの優先順位を下げる。しかし、この結果どうなるかといえば、その選択によって、当選した候補者は、今度は、自分の政策が綜合的に信任を得たかのように、それを実行する。実は、その「分かりにくいテーマ」が、有権者にとって、決定的な意味を持つ重要なテーマであったとしても。
だから、時に専門家は叫ぶ。その優先順位でいいのか、「分かりにくい」ために順位を下げられないために。ある意味、国民にとって優先度が低いテーマでも、「ワンイシュー」選挙を成り立たせられる力となった大マスコミが、これも扱い次第でどうにでもできる存在であるという目線を送らなければならないことは、この現実からもはっきりしてくる。つまり、私たちは、多くの専門家の叫びに耳を貸し、かつ、大マスコミの報道に厳しい目線を向けなければ、本当に優先すべきことにも、「ワンイシュー」適不適にも、たどりつけないということである。
「(集団的自衛権の行使をめぐる憲法解釈の)最高責任者は私だ。政府答弁に私が責任を持って、その上で私たちは選挙で国民の審判を受ける」
波紋が広がっている2月12日の予算委員会での安倍晋三首相の発言。自らの判断で憲法解釈を変更できるかのようにいう、この発言は誰の目にも「立憲主義」を重んじているとはとれないが、別の見方をすれば、ここには「国民の審判」に対する、自信とも侮りともいえるものがみえるといわなければならない。つまりは、特定秘密保護法の成立強行も、集団的自衛権行使容認も、選挙において、有権者が優先順位を下げるというヨミ。そして、選挙に勝ちさえすれば、どうにでもできるというヨミ。それが、「最高責任者」は有権者であるとみていない、安倍首相の侮りにほかならない。
「ワンイシュー」批判が迫る警戒感、またそれに反応する私たち自身にも、私たちは警戒しなければならないように思える。