司法ウオッチ<開かれた司法と市民のための言論サイト>

 

 参院選、都知事選と、立て続けに、この国の未来に危機感を覚えている人々を落胆させるような結果が出た。もちろん、選挙における候補者の勝因、敗因の分析は単純なものではない。自身の資質、政策の実現能力への期待度から選定の経過、さらには選挙期間中のスキャンダラスな報道まで、すべて勝ち負けの要素として加味された結果ではある。ただ、それでも一つの現実を、今、この結果から直視し、読みとらなければならない。安保法制、原発、憲法、そして「安倍政治」といわれる手法や方向性に対する危機感――。これらに対する有権者のプライオリティは、こと選挙結果への反映する要素としては低い、低かったという現実である。

 

 危機感を持つ側としては、もちろん認め難い現実ではある。また、有権者に危機感がない、と単純に括ることも、もちろんできない。すべてを期待できる候補者など存在しないと考えれば、そこには苦渋の選択があったかもしれない。おそらく、危機感を完全に杞憂として否定する人の方が少ないのも事実だろう。要はあくまでプライオリティ、危機感の程度の問題ということになる。

 

 では、どうしてこうなっているのか。一般的に推測されるのは、「距離感」だ。起こっていることが、論者が訴えるような危機感を帯びていても、その結果は、「遠い」という感覚。安保法制や改憲によって、本当に日本が戦争に巻き込まれること。原発再稼働と地震によって、再び福島のようなことがわが身に降りかかること。危機感はあっても、それが明日起こることのようなリアリティを持てない。

 

 災害が起きるという不確実性や、「なんとかするはず」「平和を求めているはず。何も戦争するとはいっていない」といった国家に対する善意解釈も手伝って、これらのテーマは後方に押しやられ、「生活」というテーマ―を中心に、明日、「叶えてくれそうなこと」「当座求められるもの」の視点で、プライオリティが決まっていく。

 

 戦争が勃発したならば、テロが発生したならば、原発事故が起きたならば、そうした「生活」そのものが根底から成り立たないという論法は、それ自体、正論であっても、プライオリティを決定づけるこの距離感の壁は、危機感を持つ人間が考える以上に厚いのだ。

 

 安保法制関連法案の衆院通過のとき、首相に近い参院議員の一人は「消費税や年金と違い、国民生活にすぐに直接の影響がない。法案が成立すれば国民は忘れる」と語ったという話が、メディアを通じて流れた。問題ある推進者側の本音という扱い方がされて、「とんでもない」という怒りの声も聞いたが、現実は、この議員の見方の正しさを裏付けてしまっている。事実そのものの重大性を忘れたわけでなくても、選挙に反映させる重みとしては「忘れた」と括ることはできてしまう。

 

 有権者がより身近に感じたテーマ、あるいは今日明日の「生活」から逆算した選択自体を責めることはできない、という見方も出されるだろう。大衆の前記したプライオリティに向う意識傾向には、当然、マスコミの影響とその責任も考えなくてはならないが、彼らとておそらく、前記見方をもって弁明するはずだ。国民にとって切実なテーマ、より身近なテーマがそこにあるのならば、そこをよりターゲットにする、というような。

 

 しかし、残念ながら、前記した危機的テーマはすべて、国民の安心への油断と善意解釈、そして身近な問題意識の陰で、ゆっくりとじわじわと進行し、気付いたときは、取り返しがつかない結果を生むものばかりだ。戦争体験者は、戦争がそうして起こってしまったことを知っている。彼らもまた、油断のなかで生活していたのだ。彼らが国民のなかから消えつつあるともに、同時に、また、それが繰り返されつつあるという見方もできてしまう。

 

 ここ一連の選挙は、やはりこの基本的な問題に向き合わないことには、どうにもできない、頭を押さえつけられているような状況を私たちに教えている。いかに数合わせの基礎票や、知名度が勝算を導き出しても、結局、同じことが繰り返されるかもしれない。

 

 現実はもはや「ゆっくりとした危機」ではない。しかし、そう見えてしまえば、結果は同じ。リアリティで勝負はできない、というところに持ち込むのが、まさに相手側の勝因であるとすれば、今日明日にだけ目を奪われた選択の恐ろしさを、改めて粘り強く伝える努力がまず必要になる。



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