質・量ともに豊かな法曹を確保することを目指すとした、今回の司法改革は、「資格」というものの社会的な役割をどうとらえているのか。こんな素朴な疑問が、この「改革」には付きまとってきたように思える。そもそも「質・量ともに」と括られ、その両方を満たす法曹養成という建て前ながら、推進派のなかにもそのとらえ方にはバラツキがあった。
有り体にいえば、当初から法曹界、とりわけ最高裁・法務省が、法曹の数は増やしても、レベルは絶対に落とせないという立場であったのに対し、法科大学院制度を推進しようとする大学や文科省側には、その点で温度差があったことは事実だ。一方で、弁護士について、増員による競争・淘汰によって良質化が図られることで質が確保されるというとらえ方が、この「改革」では、つとに言われた。そして、司法試験合格率が伸び悩んだ法科大学院関係者から、この論理に乗っかるかのように、取りあえず合格させよ、質は社会に放出してから、という論調が聞かれて、前記温度差があった事実はより明確になった。
当たり前の話だが、もし、本当に「ともに豊かな」という立場で質にこだわるのであれば、それを脅かす量産は回避するべき、とことになるが、それでも量産にこだわらなければならない立場からすれば、建て前はともかく、質の担保は社会放出後の競争による良質化にできるだけ委ねたい、という話になってくる。
だが、こうしたなかで、非常にあいまいのが、前記「資格」の社会的役割、いうまでもなく、「資格者」を頼ることになる側にとっての「資格」の在り方の問題だ。つまり、その「資格者」の一定の能力を社会に対して保証するということ自体をどこまで厳格に考えるか、さらにいえば、そこをどこまで優先させるのか、ということに関わる話である。なぜ、ここを強調しなければならないかといえば、このことの保証こそが法曹、とりわけ弁護士という存在に対する、一般の利用者の最低限のニーズであり、さらにいえば、実はそのことをむしろはっきりさせたのが、この「改革」の結果ではないか、と思えるからである。
弁護士や司法と、およそご縁のない市民の関係は、その解消しがたい情報の非対称性の前に、市民側に厳しい選択が迫られ、さらに競争・淘汰での質確保をいう「改革」は、一面、その点で利用者に酷な自己責任を課すものといえる。しかし、端的にいえば、中には「まがい物」といえる存在がいたとしても、「資格者」(取得後の修養担保されていることも含め)である以上、大方、一定のレベルの人材に当たるという形こそが、そうした市民側からすれば、最も安心な関係であり、本来、最優先されてもいい、期待度の高い点であるのは明らかだ。
いわば「資格」を与えたあとに、質の担保を委ねるがごとき、競争・淘汰論も、またそれに寄りかかるような法曹養成の考え方も、この点を軽視しているといわねばならない。
「資格者」のレベルにバラツキが生じた場合、最もその実害を被るのは、前記したように、弁護士にも司法にもなじみがない市民であり、逆に、恒常的に選択するノウハウや知識の蓄積があり、より主体的にニーズにあった選択がしやすい企業法務関係者にあって、実害が少ないとの見方はできる。ただ、実はこのバラツキが大企業にも実害を及ぼしかねない、とする見方もある。その予想図は、次のようなものだ。
「価格競争になるためには、マーケットに出回る製品の質にそれほど違いがないことが大前提」、「司法改革の最大の成果は、弁護士の数は増えたが、質はまちまちであり、優秀な質の高い弁護士は極一部であるという共通の認識がマーケットに広がりつつあること」。そのために恒常的に弁護士を使う企業にあっても神経を使うことになり、多額のリーガルフィを支払うことを余儀なくされる。そして、質のバラツキが広がることで、「弁護士というだけでは社会的信用を得られない。ブランド力のある事務所の弁護士であることが、社会的に信用を得るために必須」となり、大手事務所に勤務する弁護士が「勝ち組」、個人を相手とする弁護士やマチ弁は「負け組」の風潮が発生し、小さなマチ弁事務所で採算の取れないような人権活動をやりたいと思う優秀な弁護士がいた」これまでとは打って変わり、「優秀な弁護士は大手事務所や大企業以外で働くことを考えなくなる」。さらに、「資金力と仕事内容の面で圧倒的に優位に立つ外資系事務所が市場に数少なくなった優秀な弁護士を吸い上げる」――(アメリカ法曹事情「司法改革の最終的被害者は大企業になるのでは? その1」、同「その2」、同「その3」、同「その4」)。
「資格」の責任ということを、「改革」の責任として優先させる視点にどこかで、まず立たないことには、弁護士と社会の不安定な関係は、ますます広がるようにみえる。