司法ウオッチ<開かれた司法と市民のための言論サイト>

 

 法曹人口と法曹養成に関する日弁連決議をめぐる長時間にわたる討論の末、賛成多数で執行部案が可決された3月11日の臨時総会(「3・11臨時総会からみた『改革』と日弁連」)には、同案とそもそも同総会開催の発端となった招集請求者案のほか、二つの執行部案の修正案が会場に配布された。そのうち招集請求者案と動議が成立した一つの修正案は採決で否決されたが、もう一つ修正案の動議不成立で議事・採決にかけられずに姿を消すことになった。

 

 その遠藤直哉弁護士提案の、「第4案」は、司法試験合格者3000人の維持し、その半分程度を税理士、弁理士、司法書士、社会保険労務士、行政書士といった、いわゆる隣接士業の枠とし、法科大学院がそれを養成対象とするともに、30年後には隣接士業すべてを弁護士に一元化するという内容を含んでいた。

 

 会内の大方の反応は、過激とか大胆すぎるといったもので、「隣接士業から猛反発が出るだろう」という声もあり、結果はある意味予想通りの形に終わった提案ではあった。もっとも、現在の「改革」路線のもとになる2001年の司法制度改革審議会最終意見書が、法曹人口増員の必要性を考える上で、第4案が触れる隣接士業の存在を、諸外国との対比においてもどこまで勘案したのか、有り体にいえば、彼らがカバーする法的ニーズを勘案してもなお、この膨大な弁護士激増を生み出す必要があったか、という問題が存在したことは事実である。その点について、この第4案の視点は、踏み込んでいると評することはできる。

 

 ただ、その一方で同案は、法科大学院制度への強い期待感、あるいは依存感に支えられている。法学部改廃、予備試験廃止を前提にする同案は、法科大学院本道主義を強化するものだったが、その中で最も気になったのは、同案の提案理由が多用している「法の支配」という言葉である。

 

 同提案理由は、「法の支配」は二面性を持ち、①法令の固定的遵守、法治主義を形式的合法性の維持、②「人権、自由、福祉を重視する解釈や立法、社会や経済変動に合せた解釈や立法」の実質的合法性の追求である、としたうえで、こう書いている。

 

 「法の発展は絶えざる言論の斗争により可能となり、その実現により暴力や戦争を回避できるのである。この漸進的な進歩の原動力となる法的討論と法的構築をできる力こそが法曹に与えられた権能と義務であり、この訓練は困難であるが故に予備試験では不可能である。法科大学院は法の支配の伝道者の唯一の養成機関である」

 

 だが、私たちが今、一番確認しておかなければならないと思えるのは、この「法の支配」という言葉の本来的な意味ではないかと思う。この言葉は、そもそもが君主主権原理に対抗した原理で、「為政者の恣意的な意思に基づかない法律による支配」を意味し、その点で、この「改革」が伝えてきた私人間の紛争への司法の積極活用のイメージはある種の誤用的な拡大解釈であるとする意見がある(武本夕香子弁護士「法曹人口問題についての一考察」)。

 

 この「改革」は、その誤用的拡大解釈部分を、弁護士増員政策の肯定論と結び付けているといっていいが、裁判所は拡大されないまま、弁護士が社会の隅々に登場させたところで、「法の支配」が貫徹されるわけではないことがはっきりしていたこともさることながら、そもそも個々の弁護士の環境と、それが支える意識を前提に、その実現が担保されるという、極めて現実問題をこの「改革」が実証したといえないか。

 

 そのうえで、目を放してみれば、果たして「法科大学院は法の支配の伝道者の唯一の養成機関」などということがいえるのだろうか。提案者を含めた旧司法試験体制の法曹が、法科大学院教育を経ていないことを考えれば、まさにこれまでのわが国の「法の支配」と法曹の存在を自己否定するような論調となるが、それもさることながら、これまでの実績を考たときに、どうしてそこまで、このプロセスに提案がいう「困難な訓練」の役割を課したり、あるいはその実現可能性に期待しなければならないのだろうか、という根本的な疑問を持ってしまうのである。

 

 今、「改革」の法科大学院制度と激増政策、さらにそれがもたらした志望者減という深刻な事態を考えるときに、まず、立脚すべきテーマは政策の「価値」とその評価のはずである。前記政策の結果に対する「最低」が結局、志望者減という現象になっているからにほかならない。「価値」は理念ではなく、いまや「改革」の実証性にかかっているのである。理念に基づいて、時間をかけて「価値」を示す。やがてその正しさは実証されるというのは構わないが、その説得力には当然、現段階での裁定が下されるのだ。

 

 旧司法試験で生まれた法曹、さらに現在、制限提案がいわれ、この第4案が廃止するという予備試験ルートの法曹が、「法の支配」を担う存在として決定的な欠陥を持っているという説得力を、法科大学院本道主義礼賛の論調のどこに今、私たちは見出せるのだろうか。もっといえば、この「改革」の先に、今、本当の「法の支配」の意味において、「為政者の恣意的意思」に基づく支配に対抗する法曹が、かつてより生み出されるという絵を誰が描けているというのだろうか。新法曹養成も弁護士増員も、この「改革」が生み出そうとしてるのは、むしろ逆の方向ではないか。

 

 この第4案の提出の動議に賛成しなかった、執行部案賛成者の多くは、もちろん法科大学院本道主義の支持者であるとみれば、彼らの中には、前記隣接士業に関する決定的に差し障る提案を持ちながら、強固な法科大学院信奉をにじました同案に、苦笑した人たちも少なくなかったと思う。ただ、むしろこの期に及んでも、法曹人口と法曹養成というテーマで、「国民のための法科大学院制度改革」(第4案)として、この誰がみても誤算と行き詰まりをみせている制度に、こんな風な形で手を差し伸べる信奉者が弁護士たちのなかから登場すること自体に、止まらない「改革」の現実を見てしまう。



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