何かと話題が多かった印象の東京都知事選は蓋を開ければ、大方の予想通りの現職の勝利で終わったが、今回の選挙に対するメディアの姿勢に疑問の声が聞かれる。つまり、端的に言って、候補者について伝えるべきことを伝えたのか、さらにいえば、意図的にそれに消極的ではなかったのか、ということへの疑念が、大衆の中にくすぶっているということである。
テレビ討論という有権者が、候補者の主張を聞ける機会は設定されなかった。その背景に、候補者である現職知事の消極姿勢も言われるが、逆にそれを追及する姿勢はなく、さらに既にネットを通じ、その知事の経歴等の疑惑情報が流れながら、その報道に腰が引けているように、見えたことも指摘されている。
いわゆる「主要候補」などと設定して、一部の候補者だけにスポットライトを当てるやり方そのものに、公平性の問題があることは事実である。だが、それとは別に、一部候補者への忖度ともとられかねない姿勢について、メディアはどこまで自覚しているのだろうか。
嫌な感じがするのは、放送法や新聞倫理綱領に登場する「公平」とか「公正」ということが、消極的に解釈されているようにとれることだ。つまり、有り体に言えば、「公平」「公正」であるために、あらかじめ伝えない。別の言い方をすれば、判断材料となる情報を国民に提供することを優先せず、あらかじめ「公平」「公正」の名の下に報道を控えたり、情報を別の意図で取捨していないか、ということだ。
実は、このメディアの姿勢は、今の日本の言論状況の深刻さを象徴しているように思えてならない。なぜならば、国家も、メディアも、そして、近年より国民が身近でアクセスできる情報源であるはずのインターネット空間においても、「伝えない」「伝えさせない」という方向で、軌を一にしているといわなければならないからだ。
政府は感染症対策の名のもとに、「偽・誤情報」を平時から監視と、削除要請などを、新型インフルエンザ等対策特別措置法を根拠に進める方向となっている。感染症対策といっても、要は、政府が「偽・誤情報」と認定したものは、「伝える」ことができない形になる。
これは、伝える側への強力な委縮効果を生む可能性がある。既にYouTubeなどでは、賛否が分かれたり、政府方針と一致しないテーマを含む「ワクチン」などの一部用語とその扱いについて、運営者側による「規約」に基づく一方的なアカウント停止を恐れるコンテンツ提供者が、それをかいくぐるために、伝わる言葉を言い換えて流す、といたことが、常態化している。その禁止の根拠性・妥当性は、追及されないまま、「NGワード」が一律に消されているという、まさに消極的な意味での公平性しか、社会は理解できない。ある意味、前記政府の方向でも、現出するものは同じということが想定される。
そして、問題は、これらの根拠性・妥当性をもはや誰も追及しない状況が、当たり前になってしまうことだ。本来、その役割を担うべきメディアが、前記のような姿勢であれば、一体、その役割をこれからどこまで期待できる、というのだろうか。
ネット空間の情報をめぐっては、近年、「フェイク」「陰謀論」といった言葉やらく印が横行し、その一方で、誹謗中傷被害も深刻な問題となっている。それ一つ一つは、一括に括って評することはできず、個別に対応しなければならないのは当然だ。
しかし、それとは別に私たちがいまや深刻に受け止めて、覚悟すべきなのは、これらもまた、一つ間違えれば、前記国民にフェアに伝えない社会、それを好都合と考える側の思惑に、利用されかねない、ということである。「フェイク」「陰謀論」認定が、前記「偽・誤情報」同様、検証されない恣意的で一方的なものでないか、政府や権力者への正当な批判までを、あたかも「誹謗中傷」のような扱いで問題視したり、逆に社会が委縮したりするムードが作られないか――。
民主主義国家であったはずの、この国で。もはやジョージ・オーウェルの小説「1984」で描かれた、監視と統制のディストピアまでを、薄っすらと連想させる事態に、社会はもっと敏感になっていいように思えてならない。