司法ウオッチ<開かれた司法と市民のための言論サイト>

 

 国家権力が作ろうとする制度について、たとえ多くの国民の疑念が晴れなくても、その制度が作られてしまう。政治家が、自らにかけられた多くの国民の疑念を晴らさなくても、国民の代表として政治家でいられてしまう――。「共謀罪」や「森友問題」で揺れる国会を見ていて感じるのは、日本はもはやそういう国になりかけているのではないか、ということだ。日本の議会制民主主義のレベルといってもいいかもしれない。

 

 「テロ等準備罪」と言い換えた「共謀罪」について、政府与党はパブリックコメントによる意見公募もしない方針とも伝えられている。パブリックコメント自体、やったとしても形式的手順のような扱いになりがちではあるが、もはや聞く耳を持つというポーズすらいらないということか。要するに説明は尽くさなくても、聞く耳を持たなくても、大丈夫という自信を、この国の権力者たちは持ってしまっていることになる。もはや、この国では彼らは国民のコントロール下にないのではないか。

 

 4月7日の日本ペンクラブ主催のイベントで語った、作家の中島京子氏の次の言葉が、ネットで話題になっている(4月13日付け「赤旗」)。

 

 「森友学園の問題と共謀罪は表裏だと思います。権力が味方だと思えば、ありえない利益を供与するのが森友学園のケース。権力が敵だと思えば、ありえない方法で取り締まれるのが共謀罪。公文書を公表せず、破棄するような権力が共謀罪をつくる。本当に恐ろしい」

 

 国民がどうであろうと通用してしまう、ということは、実は国民の疑念を晴らす姿勢の有無という次元を当たり前のように飛び越して、堂々とまかり通ろうとしているようにみえる。共謀罪の本当の恐ろしさは、その日本の現状を直視たうえでなければ測れないはずだ。内容があいまいなまま、最終的な判断を権力側に委ねたり、「テロ」対策なのだから、と納得してみたり、国民のために適正妥当な運用をしてくれるだろう、といった、安易な善意解釈や温かい信頼の視線をおくることなど、ゆめゆめあってはならない。国民にとって、危険な行為なのである。

 

 私たちは、どういう国が今、目の前で共謀罪を作ろうとしているのかを、まず、認識しなければいけないのだ。

 

 ただ、それだけでは足りない。一体、私たちはどこで間違えたのか、どうしてこうした権力者たちを許すことになったのか、そこを今こそ考えなければならないはずである。

 

 「戦争」への危機感を、現実の制度をめぐる議論と重ね合わせると、まるで荒唐無稽の話のように嗤う人が、少し前まで法律専門家のなかにもいた。その日本は、今日現在、どういう状況に置かれようとしているのか。2015年の安保法制の閣議決定に際して、安倍晋三首相は日本が「アメリカの戦争に巻き込まれることは絶対ない」と明言していた。一見して何の保証も裏付けもない明言を、国民がどう受けとめたのかを思い出す必要がある。「戦争」という、最悪のツケが、国民の善意解釈や危機感なき視線の先に、回ってくるということが、いまや目の前のことになろうとしているのである。

 

 私たちのこの国が、もはやどういう国なのかを知ろう。私たちはまず、自覚しなければならない。

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