海上保安庁、警察、自衛隊に敬意を表そうと呼びかけ、拍手する首相に呼応して、一斉に起立・拍手する自民党議員たちの姿。9月26日の臨時国会開会での首相の所信表明演説での一場面への「違和感」が話題になっている。一部に関係者が促す指示があったという報道も流れたが、これが取り上げられた30日の衆院予算委員会では、首相自ら「反応」そのものは、あくまで議員各自の判断によるものという、ある意味、想定通りの弁明をしたとも報じられている。
しかし、首相自身があの場で呼び掛け、自ら拍手したところに、こういう展開を想定した演出があったとみるのは、自然だ。あるいは彼やその協力者は、その後の弁明までちゃんと想定していたかもしれない。行政府の長が、立法府の場であのような場面を演出することの妥当性を問題視する見方もある。しかも、それが自衛隊をたたえる場面で起きている、という点が、この場面にある種の意味を与えている。
ここで私たちが読みとるべきこと、いや既に「違和感」としてよみとったのは、この翼賛的な空気にほかならない。あとで思えば違和感を覚えるとしながら、その場では「つい立ってしまった」と語る小泉進次郎・衆院議員のコメントが取り上げられている。仕込みの効果はともかく、立ち上がらなければならなくなる同調圧力が、その場を支配したのだ。
こんな展開を想定してなかったという弁明を真に受けたとしても、これはまさに今の政権が生み出そうとしている空気。その支配の形を私たちは、あの場面で垣間見たのではなかったか。マスコミの政権批判を許さず、安全保障法制を強行成立させ、基本的人権より国家主義的な、国家を縛らず人民を縛る憲法を目指す。自主的という弁明を用意した、同調圧力が支える「愛国世論」を作り出そうとする流れ――。あとで思えば、「つい立ってしまった」という私たちがそこにいるのでないか。
北朝鮮やナチスを引き合いに出せば、彼らは嘲笑でかわすだろう。「そんなことあるわけない」と。そこにいる人民の熱狂があったてわけでもなく、安倍首相と一部の人間たちの、小さな企みに過ぎないのだ、と、矮小化してみることももちろんできる。オーバーなのだと、またこういうことを取り上げるのは、政権批判のためなのだという切り口や、もっと他のことを議論しろ、という社会の声もあるはずだ。
ただ、それでも今回の場面に感じた「違和感」には、私たちとしてこだわるべき意味があると思う。そして、すべて手遅れになる前に、徹底的にこだわるべきだろう。この国が、権力者の呼びかけに呼応した国民が「つい立ってしまう」ような国になる前に。