司法ウオッチ<開かれた司法と市民のための言論サイト>

 

 〈国民の信頼を根底から覆した判決〉

 

 これまでこの大法廷判決を検討してきて思うことがいくつかあるので以下にそれを記す。

 
 第1に、全ての最高裁の判決を論評するためには、その上告趣意書、原審判決の詳細な検討が必要であり、単に市販されている判例紹介書記載の判決書だけで論評すること(私もこれまでの論稿ではそうしてきた)は許されないことを教えられた。それは一つの収穫ではあるが、判決書というものはそこまでしないと論評できないということは何と情けないことであろうかとも思った。

 
 先ごろ、横浜市内のマンションで基礎杭の打設工法が正当なものでなかったために建物全体が傾斜するという考えられない事件が明らかになった。出来上がった建物の外観は実に立派なものでも、その見えない基礎部分が安全性を確保し得ないものだったということは、私にこの大法廷判決を連想させた。判決文のみを見れば、確かに複合的解釈手法を駆使し、いかにも理路整然とした尤もらしい判決のように見える。しかし、その判決に至るまでの、余り一般市民の目に触れない上告趣意等を検討すれば、その大法廷判決は砂上の楼閣でしかなかったのではないかと思われるからである。

 

 前記大久保太郎氏は、2001年3月11日判例時報1735号掲載の「司法制度改革審議会の中間報告を読んで」の論文中において、「最高裁が違憲の疑いがあるとする制度を敢えて独自の考えで『合憲だ』と押し切って貴重な国費を使って構築しようとするのは基礎工事を等閑にした建築に比すべきであり、無謀の謗りを免れないといわなければならない」と述べているのは誠に慧眼であったと思う。裁判員法第1条は、裁判員制度によって司法に対する国民の理解の増進とその信頼の向上に資すると定めるが、この最高裁大法廷判決は、裁判所に対する国民の信頼を根底から覆したとも言えるものである。

 
 第2に思うことは、この判決についてのいくつかの解説書は、大手法学系書店から発刊されている。その解説を担当した者は、以前から裁判員制度を肯定、礼賛してきた学者、研究者であり、根本的批判をなし得る学者を排除している。ジャーナリズムが、違憲性が以前から指摘されているこの制度の解説を担当する者として、合憲の立場の者に偏した解説書を出すことは、国民、特にその学界、学生に対しことの本質を見誤らせる危険性があり得ると考えると、恐ろしさと嘆かわしさを感ぜずにはおられない。

 

 最高裁時の判例ジュリスト1442号は、大法廷判決起案にも携わったであろう最高裁調査官西野吾一氏、憲法判例百選Ⅱ第6版、別冊ジュリスト№218は、岩波講座憲法4「日本国憲法と国民参加」の執筆者土井真一京都大学教授、重要判例解説(平成24年度 ジュリスト1453号)は、法律時報77巻4号「裁判員制度と日本国憲法」の執筆者笹田栄司早稲田大学教授というメンバーを見れば、そう受けとらないことの方がおかしいであろう。

 

 

 〈適格者が裁判担当者に採用される制度へ〉

 
 第3に思うことは、前述のとおり、大法廷判決は憲法80条1項が裁判官の任命方法の規定であることには触れず、ただ国民参加を否定する規定ではないと解した。しかし、同条は前述のとおり国民参加の是非に関係する規定ではない。そこで定める任命方法の枠の中であれば、裁判所法で一般素人を裁判担当者と定めることは可能である。しかし、現実には、一般素人について最高裁判所が下級裁判所裁判官として適格であるとして名簿を作成し内閣にその中からの任命を求めることは不可能であろう。それ故、一般国民、素人が裁判に関与する裁判員制度のような制度は憲法の全く予定していないところと解さざるを得ない。

 
 しかし、憲法80条1項の任命方法に従って、裁判の質を高め裁判に対する国民の信頼を向上させるために、裁判担当者として人権感覚に溢れた適切な人材を一般人から採用することは不可能なことではなく、むしろ望ましいことではないかと思われる。

 
 そのために、法曹一元の採用、弁護士、大学教授、或いは専門性を有する民間研究機関などから裁判官として適格を有する者を高・地裁の非常勤裁判官として憲法80条1項に規定する任命方法に基づき任命し、適切と解される事件の裁判を担当させることなどは十分に考えられるであろう。その方向で、裁判所法を改正し実現を図ることは可能である。

 
 憲法80条1項は、司法への国民参加を肯定或いは否定しているものではなく、下級裁判所裁判担当者の任命方法の基本を定め、その基本に則って立法機関が民主的正統性を保持しながら優れた人材を裁判担当者として選任する道を設けた規定である。この憲法の規定を正しく理解し、これまでのような裁判担当者の採用について、現裁判所法の定めるような官僚養成主義を基本とするものではなく、広く国民の中から裁判担当者としての資格と能力のある人材の確保を図る立法のなされることは望ましくまた期待されることである。

 
 もとより、そのような政策の採用は、従来の裁判及び裁判担当者の概念を180度転換するものであり、現在の最高裁判所を頂点とする司法官僚制度の下では実現が甚だ困難ではあろうと思われる。しかし困難ではあっても真に国民のための司法改革というのは、そのような方向性を持ったものでなければならないと考える。



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