司法ウオッチ<開かれた司法と市民のための言論サイト>




 「安倍政権」の突然の幕切れに、メディアにもネットにも「負の遺産」という言葉が躍っている。7年8カ月の長期政権の終焉にあって、これほど「負の遺産」ばかりが強調される異常さを改めて感じる。まるで嵐が通り過ぎたあとの、破壊された国土のように、この国の民主主義が壊され、深い傷あとが残った、その無残な姿を見ている気持ちになってくる。

 「負の遺産」は、まさに長期政権を成り立たせた条件、そのものから生まれたといっていい。集団的自衛権行使につながる安全保障法制、特定秘密保護法、「共謀罪」法など国論が二分する法律を巨大与党の数の力で押し通す。閣僚の不祥事が発生しても、官僚の「忖度」が公文書の改ざん、森友・加計問題、「桜を見る会」などをめぐる政権の私物化への疑惑の中で、説明責任を求められる場面があっても、安倍政権は、首相自身の言葉とは裏腹に、その責任について国民に真摯に丁寧に向き合ってこないで済んできた。

 それは一重に巨大与党の「数」を生み出し、彼らが「信任」を得ていると、胸を張れる選挙での勝利と、一定の支持率によるものだった。あたかも「数」の勝利は、全権委任であるという旗を掲げれば、ここまでやれる、という強引な手法をやってみせた政権だったといえるのである。

 民主党政権の失敗、「代わりがいない」という状況のイメージが有利に作用した面はあるが、その都度、選挙での勝利と支持率が、どんなに非民主的な手法によって進められた駒でも、「民主的」に成り立ったように、主張し得る形にされた。国民は許してくれた、認めてくれたと繰り返し言えばいい。支持率が一時的に下がっても、国民はやがて忘れる――。それが私たちが見てきた、この政権の本当の姿である。

 さらに、その「ここまでやれる」という驕りは、人事ということを通して、司法にまで及んだ。弁護士枠に手を入れる最高裁人事の閣議決定や黒川検事長定年延長・検察庁法改正問題。いまだその目的について説明責任は果たされないままだが、いずれも政権にとって都合のいい形に、司法を支配しようとした意図が透けている。

 今、さまざまな形で安倍政権の「負の遺産」が語られているが、その根本にあるのは、この国の民主主義、あるいは国民に対する、強烈な侮りによって、民主的な思考や配慮によらずに、形式的な「民主主義」で事を進められるという、政治権力者側の「成功体験」そのものではないか、という気がしてくる。説明責任を果たさず、また、責任を取る形を示す必要もなく進められ、長期政権を樹立した「成功体験」。そして、それは同時に、どうしてそれを許してしまったのか、という国民の側の反省材料としての、「負の遺産」にほかならない。

 しかし、安倍政権が終焉を迎える今も、いまだ不安は消えていない。安倍首相は追い詰められて辞任に追い込まれた、という人がいる。確かにコロナ対策で失敗し、支持率も低下し、政権は明らかに勢いを失っていた。とはいえ、辞任はあくまで彼のタイミングと病気を理由にしたものだ。本当に国民が彼を追い詰めての辞任ではなく、まだ彼の意志次第で首相の座に居座り、それに国民が手も足も出せない状況は続けられたのである。

 しかも早くも話題になっている「ポスト安倍」の話では、現在のところ、それこそ政権の中枢にいて、前記政権の手法を直接支えた菅官房長官の名前が浮上している。前記手法のまさに「共犯」とされていい人物が、首相の座につくことができないどころか、最有力候補になりつつあるのである。

 次期政権担当者とそれを担ぐ与党議員が、安倍政権の悪しき「成功体験」に学ぶ危険は、いまだ十分にあるのであり、そして、結果的にそれを許してしまいかねない国民側の危うさも、いまだ存在していることを、われわれは今こそ肝に銘じなければならないはずである。



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