今年5月に国際オリンピック委員会(IOC)のジョン・コーツ調整委員長が会見で放った発言が物議をかもした。「東京に緊急事態宣言が出されていても東京五輪は開催するのか」という問いかけに対し、「答えはイエス」と自信ありげに、彼は語ったのである。
これは、「安全安心」を念仏のように唱えている政権に対し、同宣言の有無を開催のハードルにさせないという意味で、アシストしたものといえるが、日本国民としては決定的に違和感のある発言であったというべきで、反発の声も聞かれた。いうまでもないが、これでは国民からすれば、緊急事態宣言そのものの意味が理解できなくなるからだ。
コロナ対応で、国民に多くの制約を課す同宣言。それは忍耐では対処しきれない、取り返しがつかない経済的打撃を国民に与えている。もし、その結果に唯一、国民が納得できる途があるとすれば、それはその宣言のいう「緊急事態」の重みに拠るしかない。多くの人は、その事態の「犠牲」を天秤にかけるしかないのである。
だから、政権が何度となく、この状況下での五輪開催の「根拠」を質されるのは、当然のことであったといっていい。そして政権は、ここは何としてでも、それに応えなければならなかったはずだった。国民が理解し、納得しようとするための、「緊急事態」の危険性があっても、五輪を開催しなければならない、その天秤のもう一方の重みについてである。
国民が疑っていることを政権が分かっていないわけはない。そして、ここで明確な「根拠」が示せなければ、これが国民に犠牲を強いている政策と明らかに矛盾してしまうことも。
しかし、それでも政権側から聞こえてきたのは、「安心安全」な大会を実施するから大丈夫といっているように聞こえるトートロジーである。そして、前記コーツ発言が、その意味で絶望的なのは、五輪の準備状況を監督する立場にあるはずの彼が、この政権の極めて重い説明責任を回避する方向にお墨付きを与える形のアシストをしたことである。
宣言が根拠にした、国民に制約と犠牲を強いたコロナの危険とその状況とは、とても「安心安全」な五輪などできるレベルではない、という認識。これが間違いであるというのならば、さすがにそれについての説明や説得は回避できないはずである。
そして、コーツ発言から2ヵ月、4度目の緊急事態宣言発令で、その矛盾した状況は、まさに現実のものとなろうとしている。それでも、政権と東京都など開催を推進してきた側は、国民に対し、前記「根拠」を示すことなく、平然と駒を進めようとしている。
もちろんここで国民が聞きたいのは、かつての東京五輪開催の意味でも、一般的な五輪の意義でもない。そうした平時なら通用するような理屈が、このコロナ禍が課している前記天秤の一方を押し下げるものになり得ないことを、彼らが分かっていないとはおよそ思えない。彼らを開催に突き進ませている、国民に堂々と語れない重しが存在しているはずなのだ。
日本総合研究所国際戦略研究所の田中均理事長は、今の日本の政治の特色は、3S(「説明しない」「説得しない」「責任をとらない」)である、と表現している(「長期政権で露呈した後手後手の“3S政治”」)。安倍・菅と続く自民党長期政権で頻発してきた事件に対し、常に政権が取ってきた民主主義破壊の手法。と同時に、それら事件によって炙り出された彼らの正体ともいっていいものである。森友、加計、桜を見る会問題、政治家の収賄、選挙違反事件そしてコロナ対策、五輪開催――。いずれも自浄作用や民主的政権への自覚に代わって、彼らが繰り出した手法である。
しかし、それもさることながら、私たち国民が今、最も認識しなければならないのは、この3S政治を成り立たせ、かつ、この政治こそがそれを証明している、彼らの国民に対する途方もない侮りである。結局、問題はここにたどりつく。この手法が通用すると思わせている、彼らに緊張感を与えていない私たちのことを、自覚する必要があるのである。