「適性試験」の事実上の廃止と、今年度入学者数の過去最低更新という、法科大学院をめぐり最近もたらされた二つのニュースが、法曹界で話題になっている。前者は、文科省の中央教育審議会・作業部会が、受験者の第一関門になっているこの試験を各校が任意に利用する方向に転換するという方針を固めたというもの。任意となれば、利用する大学院が減り、事実上廃止されるという見方になっている(読売新聞5月8日付け朝刊)。後者は、年々下降していたものの、昨年の減少幅から下げ止まりとの見方もあった法科大学院入学者数が、その期待を裏切り、9年連続で過去最低を更新し、今年度は前年の約5倍の減少幅で2000人を切り1857人になったというものである(NHK NEWS WEB5月11日)。
法曹養成の危機的な状況を反映したととれる二つのニュースは、単純にそう結びつけて片付けられない、皮肉といってもいい現実を浮かび上がらせている。制度発足以来、続けられてきた「適性試験」を任意化するという目的は、まさに後者の事態が示している状況をにらんだ志願者の回復とされている。報道によれば、調査結果に基づいた、法科大学院側からの「適性試験が志願者確保の弊害」という声が反映している。
しかし、この方策が本気で志願者回復につながると考えるもの、少なくとも受験者に門戸を広げ、優秀な人材を呼び込むなどということに効果的につながるとみる人間は、どれだけいるだろうか。前記「弊害」といっても、要は実施場所や回数の問題だ。その手間や負担感が、前記深刻な状況の一因ととらえること自体、間違っていないがどこまで強調できるのか、といいたくなるレベルの話だからだ。
それでも、「一因」は強調されるだろう。この状況は複合的な要因で起きているのは事実だ。ただ、それを認めるのであれば、「弊害」として、まず手を付けなければならないのはここなのか、という気が当然してしまう。複合的な要因の本丸は、いうまでもなく、法科大学院という「改革」で強制されている新プロセスの経済的時間的負担と、その先の弁護士の経済的激変といえる。経済的な意味を含めた弁護士という資格の将来性と、そのために投下する費用と時間、労力が、この制度のなかでは見合っていない、新プロセスの負担にそこまでの「価値」を認めないという志望者の判断が根本にある。
前記「適性試験」の弊害をいい、それを志願者回復策ととらえるのは、この本丸には手を付けないという前提の議論から導かれたとしかいえない。つまり、本丸に手を付けない前提で打つ手がない中で、絞り出された、残された限られた一手。つまり、誰がみても効果が薄いこの策が、「志願者回復」とつなげられること自体、この「改革」路線の手詰まりそのものを露呈しているとみなければならないのではないか。
法科大学院本道主義を死守しようとする側からは、志願者に人気の「予備試験」について、相変わらず本道を脅かす「抜け道」として、目の敵にする論調がみられるが、これも同様の現実を反映しているというべきである。
法曹養成の入り口として、資質をチェックするという「適性試験」の存在意義については、当初から異論がなかったわけではないが、そもそもそれを意義があり、必要不可欠なものとして制度に組み込んできた側が、この制度が足を引っ張っている、なくたっていいのではないか、という趣旨だけで、これをやめるというのならば、それもまたやや違和感を覚える。
もちろん、「改革」は実施してみなければ分からないこともあり、当初の制度にしがみつかないことも改善すること自体も、認められていい。ただ、それでも現実を前に、制度開始以来続けてきた制度を任意化するというのであれば、それなりの理由が掲げられていいはすだ。これが「決定的要因」というのであれば別の話だが、「少しでも」という苦しいニュアンスで、この一手を繰り出しているとみえるところにも、本丸にはどうして手を付けたくない側のご都合主義的な匂いを感じてしまう。
そして、いうまでもなく、もし、当初の制度にしがみつかないことも改善すること自体も認められるという方に重きを置くのであれば、それこそ本丸を直視して、根本的に制度を考えるということができないことの問題の方が、やはり今、問われてしまうはずなのだ。