LGBTのカップルを「生産性がない」とした国会議員の寄稿文を掲載し批判が殺到、さらにそれに反論する論稿を掲載した月刊誌「新潮45」が、事実上の廃刊とされる休刊となった。世論からだけでなく、社内、同社を支えてきた作家からも問題視する声が出て、問題になった最新号発売からわずか一週間での決断も話題になっている。
「追い込まれた」と表現するメディアがあるが、言論機関が内外らの批判によって一週間で姿を消すということは、言論の自由の重みからすれば、尋常なことではない。しかし、それでも今回のケースについて、健全さを覚えるのは、それでも人権の視点で一線を超えたと判断したものを問題視する世論と、それを受けたメディアの自浄作用が、まだ、この国で機能しているようにとれる一点があるからである。
しかし、その一方で、今回の一件は、そう簡単に片付けられないものをはらんでいる。それは、端的に言って前記健全さとはむしろ対照的な、この社会の気持ち悪さを反映しているように思えるのだ。
そもそも同誌はなぜ、前記論文が批判されながら、反論論稿を掲載する企画を組んだのだろうか。既に一部メディアによれば、同誌には部数減少の焦りがあったとされている。「そんなにおかしいか『杉田水脈』論文」というタイトルの企画で、これを素材に賛否の議論を戦わせ、読者に問うという扱いも出来た。しかし、彼らの目的はそこではなかったととれるのだ。世論を刺激し、話題になり、売れるということが、前記論文が批判されているという状況を逆手にとって、というかむしろ好機として、当然のごとく選択されたのではなかったか。
それは、既にこの社会で定着し出している「炎上商法」という発想と見分けがつかない。問題は、本誌を休刊にまで追い込む危険をはらむ、人権上問題となる企画が、歴史のある出版社で、「炎上商法」的発想で、選択されたという重い事実である。そして、そうであればこそ、より過激であることも、単なる手段として、他の是非を排して選択されたのではなかったか。
もちろん、彼らの目に映っていたのは、批判するアンチだけではなかったはずだ。こうした論調に拍手を送る層への期待もあったはずだ。この問題を取り上げた9月27日、朝日新聞朝刊文化面の記事で、識者はその点に言及し、「保守を装ったマイノリティたたき」が起き、「性的少数者など『弱者』が主張するのが嫌でたまらない」感覚の広がり(ジャーナリスト・江川紹子氏)や、一部メディアに見られる「政権とその支持層だけ」を向いた論じ方の浸食(ノンフィクション作家・保阪正康氏)と、指摘している。
同誌は、結果的に信じ難いほど、世論や身内の反発まで、その程度において読み間違えたが、その一方で、別の読みのもとに人権上の問題を軽視、あるいは毛目的だったのである。
さらに、気持ち悪さが残るのは、休刊を決断した認識である。社長声明は「「あまりに常識を逸脱した偏見と認識不足に満ちた表現」としたが、それが具体的に企画のどこを指すのかは、いまだ不明である。新潮社が発表した休刊理由でも、「部数低迷に直面し、試行錯誤の過程において編集上の無理が生じ、企画の厳密な吟味や十分な原稿チェックがおろそかになっていた」とし、前記社長声明の表現を引用しているだけで、意図的といっていいくらい問題性の具体的な認識について、言及を避けている。
そもそも休刊するにしても、真摯な反省のもとに対応するので、言論機関としては、当然、問題の検証企画の号が発行されて然るべきだったと考えるが、それもしないまま、媒体自体の幕引きを図ってしまった。どこまで彼らの反省の意を汲むべきか、迷いが残ってしまった。
そして、さらに付け加えれば、このケースについて、健全さを覚えるといったものの、私たち社会の感性も、どこまで大丈夫なのかは問われる必要があるだろう。発端になっている杉田水脈議員の責任、まだ、それを問わない安倍晋三首相に、社会はどこまで厳しい目を向けているだろうか。あえていえば、それは地方議員たちを脅かし、安倍三選を揺るがすほどの批判として向けていないし、それはとりもなおさず、そうしたプライオリティの問題として、私たちがこれを受けとめているということである。どこまでが守られる言論の自由で、どこからが問題にしなければならない人権問題なのか、という根本的な感性も試される。
尋常でない休刊を生み出した社会と私たちに自身に、目を向けるべきときである。