録音・録画による、いわゆる取り調べの可視化。従来、これに反対してきた捜査側が主張する代表的な反対論のなかに、「信頼関係構築論」というものがあった。
いわく、被疑者に真実を語らせるには、取調官との信頼関係を構築しなればならないが、可視化したならば、それが阻害される。要するに、可視化は、取り調べの足を引っ張るという話である。
「もし、私が捜査官と話しているときに捜査官がそのように言ったなら、私は『そんなものは、まったくもってクズのような考えだ』。つまり『たいへんばかげている』というでしょう」
2004年に行われた日弁連の委員会メンバーによるオーストラリア、ニュー・サウス・ウェールズ州の調査で、同州公訴庁の訴訟担当のバリスターは、日本の捜査機関がいう信頼関係構築論について尋ねられ、こんな風にこたえている(「被疑者取り調べ可視化のために」現代人文社)。
こういう主張を掲げる人々は、捜査技術を「自白」させることに用いて任務を終了させてしまう、ともこのバリスターは言っている。信頼関係構築論を理由に可視化を拒むことは、正当な手法による自白獲得への公明正大性に背を向けることだということだ。
同州の公訴庁長官も、この「信頼関係」は、権力を持つ捜査官と弱い立場の被疑者の関係ゆえに、「その関係を不正使用する潜在性は存在する」と述べ、「危険な主張と断言している(同)。
かつて、はじめて彼らの主張を目にしたとき、日本の捜査側の主張の弱さとともに、逆にそれでも強調される別の意図を考えてしまった。公明正大性は、日本の捜査側にとっても、本来、不利な主張ではないはず、むしろ、不利な主張であってはならないはずだからである。
だが、それでもわが国では、この論は、必ずしも弱い立場でも、ましてや「クズのような考え」とされずに、存在してきたのである。
そのわが国の検察が、ついに取り調べの全過程の可視化に踏み切った。東京地検が特別背任罪で起訴した不動産ファンド事業会社元役員の逮捕から起訴までの21日間全過程を録音・録画したと伝えられている。足利事件再審無罪、大阪地検検事による証拠改ざん事件などを受けて、ようやくたどりついた決断である。
これらの事件前の検察幹部への取材で、彼らの口から出たのは、「可視化は絶対にない」という強い主張だった。信頼関係構築論も当然出されたほか、この部分だけの改革はあり得ず、そのためには刑事訴訟構造の大幅な改革が伴わなければならないとも言明していた。
そもそも一部施行された録音・録画も、頑として、弁護士会がいうような「可視化」ではない、と念を押していた。あくまで供述調書の任意性・信用性の立証に有用だから、という立場であると。
もちろん、司法取引やおとり捜査など、新たな捜査手法を「武器」として当然、いただかないことには、というニュアンスも込められていた。
それが変わった。前記検察の不祥事を受けて出された元法相や元検事総長も加わる法相の私的諮問機関「検察の在り方検討会議」では3月、全過程での「可視化」検討の方向が示された提言がなされた。評価はさまざまだが、信頼関係構築論などが幅を効かせられる状況では、明らかになくなったのだ。
それにしても、という感が残る。かの国では当然のような扱いを受けていた公明正大性を裏付ける手法が、それこそ「クズのような考え」とまで評される論法に支えられ、わが国では、ここまでの不都合な真実を突きつけられるまで、採用されないで済んできたのだろうか、と。
「私の言えるのは、オーストラリアでは、人々は警察を信用していないのが一般的だということです」
前記調査での、同州ローカル・コートの裁判官の発言の中に、こんなものがあった。社会にある一般的な捜査への不信感が、逆にその不信を取り除くために、取調室で何が起きているかを録音・録画によって証拠化することを、捜査側にとっても最善の方法にさせている、というのである。
今、国民不信感が検察を覆っている。このことが、「改革」に必要であったという評価が成り立つ。と同時、思うのは、翻ってみれば、わが国は、必ずしも事件解明に当る捜査側の労苦を超える強い不信感で、その捜査の中身を疑ってきた社会ではなかったのではないか、ということだ。この社会のとらえ方のなかで、信頼関係構築論もまた、揺るぎない形で存在し続けてきたことになる。
捜査を監視し、社会との緊張関係を生む国民の厳しい目線の必要性もまた、大衆がこの機会に自覚するべきであるように思える。