司法ウオッチ<開かれた司法と市民のための言論サイト>




 検察幹部を定年年齢後も、政府判断でポストにとどまれるようにできる検察庁法改正案に反対する国民の反応の、ネットを中心とした広がりが話題となっている。とりわけ、芸能人らが次々に抗議の声を上げている状況は、ある種の意外性をもって受けとめられている半面、その異例な状況が逆にこの問題と状況の深刻さを浮き彫りにしている、とされつつある。

 検察人事への政治介入が、検察の独立を侵し、根底からこの国の正義が崩れる、というこの法案そのものが持つ問題性への危機感はもちろんあるだろう。しかし、それがあってはならない、この国の未来への危機感だとすれば、おそらくそれだけでは、この異例な状況は説明しきれない。

 森友・加計問題からずっと見せつけられてきた、安倍政権下での官僚の忖度と、公文書改ざんまで生み出した、いわば権力の都合で黒を白くできてしまう、不都合が消えていく、そして何よりもそれを止められない国。既にわが国がそういう国になってしまっている、という、いわば現在への危機感が被せられているとしかとらえようがない。

 メディアに登場する識者の見方にも、この安倍政権下で見せつけられてきた事象の先に、またしても現れた、このあからさまな、そして全く同じ独裁と不正義の匂いがする法案に、国民の多くが嫌気をともなった危機感を募らせている、という分析を異口同音に加えているものがみられる。

 これは、わが国の国民の健全な反応であると思うし、正確にいえば、この国に一定の健全な反応・危機感が存在していることを見ることになった、というべきだと思う。とりわけ、前記の通り、芸能人・著名人たちの反応の意外性は、よりこの法案の問題性だけでなく、この国の危機的状況に大衆の目を向けさせることに一役買った。そのことへの彼らの自覚にも、健全さを見ることができた。

 しかし、残念ながら、今回の件で、私たちの中に深く根を張る不健全さをみることにもなった。前記芸能人・著名人の反応への強い反発の声である。その中身自体は、実はこの国では目新しいものではない、残念ながら意外性がないものといわなければならない。

 その内容は大きく二つ。「政治の素人が何を言うか」「勉強してから発言しろ」といった政治素人という烙印による批判。そしてそれと通底していることではあるが、「芸人は芸だけしていろ」的な、そもそも社会的立場で政治的発言の許容を決めるような捉え方による批判である。どちらについても、国民の政治的発言への許容への狭い考え方、もっといってしまえば、実はそうした発言によって保たれるはずの、民主主義への誤解、あるいはそうした発言への「価値」に対する根本的無理解を露呈している。自らの国の政治に対する、根本的な主体性の問題といってもいい。

 いうまでもなく、米国では芸能人らが、日本よりもっと自由に政治的発言をしたり、支持政党を明らかにしているのを、われわれも目にしている。「政治的」というものを、メディアに限らず忌避する社会的風潮も同調圧力のようなものも日本にはある。そして、なによりもそこを民主主義国家として不健全であるとみる風潮も乏しい。

 そして、この日本の現実は、いうまでもなく、適正な選抜としての選挙の無力化、無意味化を含め、権力にとって利用される余地を作ってきた。まさに、前記したような現在の日本の危機的状況につながる、権力によって実に都合のいい状況につながってきたのである。

 集団的自衛自衛権行使の問題を含め、安倍政権下で行われた市民のデモに対し、同じ市民がすかさず、足を引っ張るような冷めた言葉や目線をぶつけた。「そんなことをしても無駄」「政治家でなければどうせ何も動かせない」。民主主義国家の国民にとってのデモの意味、声を上げることの意味に対する、同じ国民の無理解は、実に権力側には都合がいい。今回の否定的反応の不健全さと、その根も、効果も全く同じにみえる。

 前記改正案に対する、ツイッター上の反応に対し、安倍首相は「政府の対応について様々な反応もあるんだろう」などとうそぶき、政府高官もこれらの反応について組織的な大量投稿の可能性まで指摘して「民意ではない」と決め付けていることが報じられている(5月12日付け、朝日新聞朝刊)。

 私たちの不健全な反応のツケは、きっちりと私たちに返って来る、否、既に返って来ているということに、まず、私たちは気が付く必要がある。



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