自民党の裏金キックバック問題で連発されることになった閣僚らの答弁拒否。「派閥が精査中」だから、というものとともに、おなじみの「捜査中」が「お答えは差し控える」という理由として繰り出されている。首相の記者会見も、「説明責任」という言葉を口にしながらも、この答弁拒否の立場を踏まえ、具体的には何も言わない、逃げ腰といっていい姿勢だけが印象に残るものだった。
国民の目からどう見えるかは、もはや言うまでもない。法的な理屈以前に、多くの国民には、もし、正当な主張があるのならば、それを堂々と開陳することが何故、捜査上の支障になるのかも、拒否する立場が政治家や閣僚の政治責任よりも上回るということが、率直に理解されていないと思わざるを得ない。
つまり、逆にそこまでして拒否しなければならない、もしくは事実としてもはや弁明的な答弁のしようがない状態であるという、強い印象を国民に与えるものであることは明らかなのである。
ただ、あえていえば、それでも彼らは、臆することなく、それを繰り出している。前政権、前々政権でも見てきた、このあまりにも露骨な彼らの逃げの論法は、もはや成功体験として引き継がれ、常套句化しているのではないか、と言いたくなる。
いくつかのポイントを確認しておかなければならない。「捜査への支障」につなげる答弁拒否の根拠として、刑事訴訟法47条の「訴訟に関する書類は、公判の開廷前には、これを公にしてはならない。但し、公益上の必要その他の事由があつて、相当と認められる場合は、この限りでない」の規定の趣旨が挙げられる。
しかし、ここには「公益上の必要その他の事由」というはっきりとした但し書が付されている。政治責任としての閣僚らの説明責任や国政調査権が、当該案件にあって、これに当てはまらないのか、逆にいえば、この規定にそって「公にしない」というには、その価値を上回るような捜査上の問題を必要としているようにとれる。
また、プライバシー権という捉え方もある。ただ、しかし、これもまた、彼らが私人としてではなく、より同権が制限され得る公人として責任を問われているという点を見落とすことはできない。果たして、どこまで「捜査中」を盾に出来るのかは、合理性があるのかは、極めて不透明な形になる。
ある意味、堂々めぐりのようにもとれるが、それこそ、なぜ、この言い分が通るのか、果たして正当なのかを判断する(本当に捜査に支障が出るのかを含め)うえで、彼らは説明責任を負っているとしかいえず、それを抜きにして、まるで当然のごとく「捜査への支障」を盾に答弁拒否ができるとはしにくい。
逆にいえば、これを国民が認めた段階で、どのような場合でも(つまり、前記法的な根拠に沿わない場合であっても)、この論法が通用する、正確にいえば、通用を許すことになってしまう。彼らの中にある「成功体験」の確信や手ごたえの正体をここにみる思いがする。
一方で、首相をはじめ、この論法を繰り出す側は、現下の状況に対し、「政治不信」とか「信頼回復」という言葉を口にしている。これももはや心底が透けて見えているといわなければならない。いうまでもなく、本来、前記のような論法をこのまま平然と通用させない、その向こうにしか、国民からの「政治不信」の解消や「信頼回復」などあるわけがない。
では、なぜ、といわれれば答えは二つしかない。国民がとてつもなくなめられている(それでも国民はついてくると思っているか、手を出せないとたかをくくっている)。つまりは、本当の意味での「政治不信」「信頼回復」に危機感を感じていないか、そうでなければ、自己保身からの逆算では、もはやこれしか彼らに手が残されていないのか、である(「国民を『なめている』政治」 「『仮定の話』という回答拒否論法の悪質さ」)。
国民は、今こそ、疑いの目線で、彼らを見なければならないはずだ。