司法ウオッチ<開かれた司法と市民のための言論サイト>

 

 先日、ある知人から「再審開始決定に、一般市民の常識を反映させるべき、という議論はないのか」と尋ねられた。裁判員制度について、あれほど市民の直接参加によって、裁判に国民の常識が反映させることの意義を裁判所自らが強調しているのであるならば、という素朴な疑問である。

 

 この裁判所の言い分で、国民を動員させている裁判員制度自体は、市民参加に配慮するあまり本来の刑事裁判の形を歪めかねないこと、2審で職業裁判官によって裁かれる無意味性、さらには、民主的「効用」をうたう制度導入への民主的なコンセンサスが得られていないこと等々、多くの問題をはらんでいる。

 

 しかし、制度の旗を振ってきた裁判所の前記言い分からすれば、知人の言い分も理解できる。そこに消極的な姿勢をとるのであれば、矛盾のようにとられても無理はない。公訴権の行使か裁判かで是非が問われる対象は違うが、再審においても、検察審査会のように、民意に問いかけられる機会があってもいいのではないか、という発想も、市民感情としてはあり得るように思える。

 

 知人が、なぜ、こんなことを言い出したのかといえば、それほど今回の袴田事件での東京高裁による再審開始決定取り消しに違和感を覚えたからだった。今回の決定には、地方紙を含めた多くの新聞の社説が、異論を唱えた。各紙が口をそろえて指摘するのは、再審に対する裁判所の姿勢そのものだ。「疑わしきは被告人の利益に」という刑事裁判の原則が再審も適用されるとした1975年の最高裁「白鳥決定」を引用し、今回の高裁の姿勢について問いただしている。

 

 焦点のDNA鑑定について、開始決定を出した地裁と、今回の高裁は正反対の評価になった。犯行時の着衣とされたシャツと袴田さんのDNAの不一致を示した鑑定の手法について、高裁は科学技術として確立していないとして、証拠価値を高く評価した地裁が、その点で慎重さを欠いたなどとしている。

 

 しかし、まさに「疑わしきは被告人の利益に」という原則からみれば、あまりに消極的過ぎる姿勢だ。確立していないとはいえ、新たな手法で得られた結論に対して、なぜ、「疑わしさ」の入る余地を頭から排除するのだろう。まさに、市民感覚からすれば、ここは違う結論になっていてもおかしくない。

 

 各紙の社説では、再審をめぐる制度的な見直しの必要性を指摘する主張も目立った。長期化の原因となっている検察官が証拠を出し渋る姿勢を問題視し、証拠開示のルール化や、第三者的な専門家による鑑定・検証の新たな枠組みの必要性に言及するものがあった。

 

 しかし、「開かずの扉」といわれてきた再審に対する司法の消極姿勢の根本にあるのは、「法的安定性」という言葉に置き換えられている権威主義にほかならない。再審請求審を裁判員方式すべきという提案 もなされているが、裁判員制度と同様に、この権威主義と向き合わないことには、彼らの都合のなかでの形だけのものになりかねない。既に前記刑事裁判の原則も、権威主義の前に、形がい化しているのである。

 

 権威主義が張り付いた「法的安定性」よりも、再審における消極主義こそが、決定的に司法の信頼を失墜させる、逆にいえば、同主義を改めることは司法への信頼確立のために避けて通れない、という認識に至るまで、国民は厳しい視線を向け続けなければならない。



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