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 この国では、いつから政治家が国民に向かって発する「丁寧な説明」という言葉が、当てにならないものになったのだろう。改めて言うのもおかしいが、「丁寧」という以上、国民の理解や了解に向けて、言葉を尽くして、その疑問の氷解に努める「説明」になってもよさそうなものだが、およそそういう事は期待できなくなっている。

 思えば、直近の安倍晋三、菅義偉、岸田文雄の三首相は、いずれもこの言葉を口にしたが、結果はどれも(現首相に関しては今のところ)期待外れなもので、国民は肩透かしをくっている。こう言っては申し訳ないが、そもそも彼らははじめから「丁寧な説明」に努めようとしているわけではなく、「丁寧な説明」をした、ということを既成事実化したいだけ。つまりは「やっている感」を印象付けたいだけだったようにしか思えないのである。

 二つの問題がある。一つはもちろんその「説明」が前記したような「丁寧さ」が伴っていないこと。そして、もう一つはさらに重要なことかもしれないが、国民の理解や了解に到達しなかった場合、結局、彼らははなから押し通すつもりであるということだ。

 これは奇妙なことだ。国民の多数が納得させられないという事実があっても、それはそれとして、彼らはそれが政策であれば強行しようとするし、弁明であれば、責任をとろうとしない。国民の多数の納得や了解が得られなかったという事実は、彼らの政治的態度になんら影響もない。

 念のために付け加えれば、弱者や少数者のために、多数派世論に寄らない政策を打たなければならない局面もあるかもしれない。だが、それならばそれはこちらも分かる。残念ながら、彼らの肩透かし案件は、それには該当しない。これでは独裁と同じ、と言いたくなるような、民意の無視である。

 今、問題となっている安倍元首相の「国葬」をめぐって、岸田文雄首相は、この「丁寧な説明」という言葉を使った。しかし、閉会中審査での彼の発言も肩透かし。「丁寧な説明」ではなく、「丁寧」にこれまでの主張を繰り返しだった。

 「国葬」実施の法的根拠がない、という問題について、政府は内閣府設置法で内閣府の所掌事務とされている「国の儀式」として閣議決定すれば実施可能とする見解を示し、岸田首相もそれをただ繰り返し唱えているだけだ。しかし、既にこの点に関してもいつかの弁護士会から、内閣府設置法は内閣府が行う所掌事務を定めたものに過ぎず、その「国の儀式」に「国葬」が含まれる法的根拠がなく、「国葬」実施には別途明確な法令の定めが必要だがそれがない。今回のような政府の恣意的解釈を認めれば、政府は内閣府設置法を根拠にいかなる儀式もなし得ることになる――といった問題を指摘する「国葬」反対の会長声明が出されている(東京弁護士会広島弁護士会新潟県弁護士会大阪弁護士会など)。

 こうした疑問に向き合わず、強行するというのであれば(また、それがまかり通るというのであれば)、そもそも法治国家としても、民主主義国家としても、この国は、相当劣化しているといわなければならない。

 今年7月に、この「国葬」の問題を取り上げた当コラムでは、安倍元首相暗殺直後の、非業の死を遂げた彼を美化するムードに乗っかった、異例の格上げ的「国葬」方針について、むしろ国民は利用されるべきではない、とする立場で問題提起した(「死者の美化と『国葬』」)。

 だが、幸いにもその点は杞憂に終わりそうなムードになってきた。「国葬」反対の声は強まり、時事通信の9月の世論調査では、「反対」51.9%、「賛成」25.3%と、賛成派の倍以上の国民が反対派に回っている結果となった。その意味では、明らかに元首相の死後、早々に「国葬」方針を打ち出した岸田首相の思惑は外れ、ある意味、国民は健全な民意を示したように思える。

 しかし、なおさらのことと言うべきでかもしれない。これでも、形式的な「丁寧な説明」だけで、「国葬」を強行するということが、どれだけ国民と私たちが望む民主主義国家を愚弄しているかを、私たち自身が噛み締める時である。この「国葬」強行は、まさにこの国の劣化の象徴といわなければならない。



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