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 〈なぜ日本国憲法に納税の義務を定めたか〉

 納税の義務を定めた日本国憲法30条の前にある29条の1項には、「財産権は、これを侵してはならない」と規定しています。基本的人権の保障の一例です。この規定も、俳句ように短く簡単に書いていますので、誰が誰に対し、誰の財産権をどうしなければならないと定めたものなのかについて、頭の中で文章を補充しければなりません。

 これを補充しますと、「国の機関は、国民の財産権を侵してはならない」となります。国の機関は、国民の財産を勝手に取り上げ、国の財産にするなどということはできないのです。国民の財産は国民が持つものであって、国家といえども国民の財産を侵し、損害を与えることはできないということです。この財産権の保障は、国民の基本的人権の中でも、最も重要なものの一つです。

 1215年、イギリスでマグナ・カルタ(大憲章)が生まれました。これが世界の憲法のはじまりなどと言われていますが、その内容は、貴族が国王に一方的に税金を増額したりしないように約束させたもののようです。いわば財産権の保障を君主に認めさせたものでした。その後、時間はかかりましたが、財産権の保障は、どこの国でも憲法の重要な部分となっています。

 日本国憲法は、その財産権の保障を第29条に規定し、そのすぐ後の第30条で「国民は、納税の義務を負う」と規定しました。なぜ、日本国憲法は、財産権の保障の次に、納税の義務を宣言したのでしょうか。この順序に特に意味があるのでしょうか。

 日本国憲法の財産権の保障規定との関係をどのように考えたらよいのか――。なんとなく漠然とは考えたことはありますが、この関係をはっきりさせようとしたことは、私もこれまでありませんでした。なぜ、国民の財差権は国の機関から侵害されないと定めながら、すぐその後に「国民は、法律の定める所により、納税の義務を負う」と宣言したのでしょうか。

 こんな宣言をしたために、「財産権はこれを侵してはならない」と定められているにもかかわらず、国民は国の機関である税務署から税金を取り立てられる破目になっています。国民としては、余計なことをしたような気がしなくもありません。特に税金を納める時には、そんな思いがします。

 国家とは「決まった領土の、一つの政府のもとにまとまって住む人々の社会集団」(角川必携国語辞典)です。人々が集まって生活するためには、そこに住む人々のためにカネがかかることは言うまでもありません。

 そのカネは、そこに住む人々が負担しなければなりません。国の主権者である国民が、国に税金を納めることは当然ということになります。国は国民の財産を侵してはなせないと定めた、そのすぐ後で、国民に納税の義務があることを宣言したことは、双方に深い関係があることを示しているように思えます。

 国家ができた瞬間から、国民は国に税金を納めてきました。マグナ・カルタを持ち出すまでもなく、君主は領民から税金を取り立て、これは長い間続きました。日本にも古くから「租・庸・調」という税制がありました。大化の改新で制定されたとのことですから、645年頃ということになります。

 明治憲法は、第2章の「臣民権利義務」の第20条の「日本臣民は法律の定める所に従い兵役の義務を有す」という規定に続く第21条に、「日本臣民は法律の定めるところに従い納税の義務を有す」と定めていました。諸外国の憲法にも、ほぼ同じような規定があるようです。国民が国に税金を払う規定は万国共通のようです。

 君主が領民から、税金を徴収するといことは、世界中で長きにわたり行われ、日本でも日本国憲法ができるまでは、明治憲法においても、天皇という君主が、臣民、つまり天皇に従属する国民から税金を取り立ててきたのです。

 ここまでは、税金を取る立場と、取られる立場とは対立する関係でした。ですから、明治憲法においては、「なぜ納税の義務を定めたのか」という問いに対する答えは、「天皇が臣民から財産を取り立てるため」ということになります。

 これに対し、日本国憲法は国民主権国家ですから、国民が憲法を制定したのですが、国民自らが国を運営するために、カネがかかりますので、その運営資金のために、国家の構成員である国民が会費を出し合うことを宣言したことになります。ですから、前記問いに対する答えは、「国民のための国家を運営するために国民がその運営資金を自ら出し合うことを宣言した」ということになります。

 同じ納税の義務でも、ここのところが根本的に違うところです。「取られる」か「出し合う」かという違いは、国民の税金を納めるということでは同じ結果ですが、考え方は全く違います。この考え方の違いは、税金の納め方や税金の使い方に違いを生み出します。違いが生まれなければならないのです。

 明治憲法と日本国憲法では、ほぼ同じような文章で、納税の義務が述べられていますが、本質的には天と地ほどの違いがあるのです。明治憲法では、税金は臣民が天皇から取られたのですが、日本国憲法では、税金は国民が国民のために使う費用分担のために国民自ら出すものなのです。日本国憲法の下で、国民の納税の義務を考える場合には、ここのところの認識が大事です。国民は、自ら税金を納めるのであり、誰かに取られるものではない。


 〈国民の生命と幸福に絶対に使われなくてはならない税金〉

 さらに、大事なのは、国民が国民のために使う費用分担ですから、「国のために使う」ということは、「国民のために使う」ということであり、この意味を間違ってはならないということです。国民のマイナスになるような税金の使い方は、絶対に許されないのです。

 日本国憲法の究極の価値は、個人の尊厳にあります。人間一人一人の命と幸福こそ最も大事なのです。そのために税金が使われるのです。日本国憲法は、明治憲法のように天皇のために税金を納めているのではく、一人一人の命と幸福のために資金を出し合うために納税の義務を宣言しています。ですから、ここから外れた税金の使い方は、絶対に許されないのです。

 税金や国の借金を使うのは、国会の議決に基づかなければなりませんが、内閣です。日本国憲法は、「戦力の不保持」を宣言しています。安倍前政権のように、ステルス戦闘機購入に税金を使うことは、明らかな憲法違反であり許されません。これを黙認している国会や国民がおかしいのです。

 税金は、日本国憲法が究極の価値としている国民の生命と幸福追求のために使われなければなりません。これに反することに、税金は絶対に使われてはならないのです。これが一番大事なところです。

 日本国憲法は、第29条で国民の財産権を保障し、国民が財産を持つという制度を採用しました。財産を個人のものとせず、その国家、社会全体で共有し、公平に分配しようとする共産主義を採用しなかったのです。どちらがよいかは置いておいて、いずれにしても憲法の究極の価値は、一人一人の人命と幸福にあるのですから、その視点で納税の義務に関する、すべての法令は解釈運用されなければならないのです。

 ですから、「なぜ、日本国憲法に、納税の義務を定めたのか」という問いに対する答えは、「日本国の主権者である日本国民が、国民の生命と幸福を守るために、国民が自らカネを出し合うことが必要だと自覚したから」ということになります。

 そう考えれば、税金は人命と基本的人権を守るために使われるべきであり、それに逆行するような方向へは、絶対に使われてはならないということになります。人命と基本的人権を、根底から奪うのは戦争です。戦争に向かうようなことに税金を使うことは、絶対に許されないのです。

 (拙著「新・憲法の心 第28巻 国民の権利及び義務〈その3〉」から一部抜粋)


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