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 〈「正義の戦争より、不正義でも平和がいい」〉

 

 小沢昭一さん(1929-2012)という俳優がいました。私は、彼のラジオ番組「小沢昭一の小沢昭一的こころ」が好きでした。数年前、私の誕生日に親しくしている友が、「20周年記念 小沢昭一の小沢昭一的こころ――唄う小沢昭一的こころ」というCDをプレゼントしてくれました。平成4年(1992年)末から同5年(1993年)正月頃に放送されたものが収録されています。時々、ドライブ中に聴いています。

 

 その中に、「第3部 正月気分は反戦気分」があります。彼は、決して美声とは言えないけれど、味のある歌い方で軍歌をたくさん唄い、「今になると、これらの歌は反戦歌だ」と断じています。歌の合間に、軽妙洒脱な語りを入れています。

 

 彼の言葉の中で印象的だったのは、「正義の戦争より、不正義でも平和がいい」の一言です。彼は、例の如くユーモアたっぷりに、いかにも「私のような低俗な者には、正義などどうでもよく、平和であればそれでいい」と自嘲的でした。「品がなくとも、卑しくとも、安っぽくとも、平和がいい」という語り方でした。

 

 小沢氏がCDの中で唄った軍歌はかなりの数になっていますが、代表的なものを二つ紹介します。どちらも紙面の都合上、一部だけとさせていただきます。「軍歌の中では最も多く唄われた歌だ。軍歌の両横綱というところだ」と、小沢氏が語っていました。

 

  露営の歌(昭和12年)
 戦争する身は かねてから
 捨てる覚悟で いるものを
 鳴いてくれるな 草の虫
 東洋平和の ためならば
 なんの命が 惜しかろう

 

  愛国行進曲(昭和12年)
 いま幾度か わが上に
 試練の嵐 哮るとも
 断乎と守れ その正義
 進まん道は 一つのみ
 あゝ悠遠の 神代より
 轟く歩調 うけつぎて
 大行進の 行く彼方
 皇国つねに 栄えあれ ※ゴシック体は筆者。

 

 小沢氏は、面白おかしく聴かせようと自らを軽蔑し、嘲笑うような言い方をしましたが、私にはその真意は違うところにあるように思えました。つまり、「戦争は、いつでも『正義のため』との理由でやられるが、戦争をしなければならないほどの正義など、あるはずがない」と言いたいのだと思います。

 

 もし、それが小沢氏の真意だったとすれば、私は心の底から賛同します。小沢氏の「正義の戦争より、不正義でも平和がいい」という言葉には、そのような意味があると私は確信しています。

 
 
 〈正義にこだわるな~般若心経〉

 

 「正義」とは、「社会で正しいはずの、人の従うべきすじみち」などと、辞書には書いてあります。しかし、どんな正義であろうと、その正義のためなら「戦争をやってもいい」などという正義はありません。「人命を奪ってもいい」などという国家はいりません。

 

 私は、そのように普段から考えています。小沢氏も同じような思いで、「正義の戦争より、不正義でも平和がいい」と言ったのではないかと私は思っています。一部の政治家や憲法学者の言葉より、よっぽど説得力があります。

 

 日本で一番読まれているお経は、「般若心経」だそうです。よく知られているのは、「色、即是、空」という部分です。私は、仏教の勉強していませんので詳しいことは分かりませんが、本などによりますと、般若心経の教えの中心は「空」、即ち「こだわるな」ということたそうです。

 

 従って、「正義」、「正しさ」にも「こだわってはならない」と、般若心経は教えているそうです。「これが正しいから、これは絶対に貫き通さなければならない」と、こだわってはいけないということになります。戦争をしなければならないほど、こだわらなければならない正義などないのです。

 

 戦争は、「わが国の考え方こそ正義だ。この正義を貫き通すためには、それに反する国は叩き潰さなければならない」ということになり、起きるものです。つまり、「正義」にこだわりすぎるから、戦争は起きるものだと思います。

 

 前記「愛国行進曲」の中にも、「正義」という言葉が出てきます。「露営の歌」の「なんの命が 惜しかろう」と併せて読みますと、「正義のためなら、命はいらない」と言っているのです。また、「天皇のためなら、命はいらない」と言っているのです。

 

 戦争は、「正義のため」とか、「天皇のため」とか大義名分によって起こされるものであることは、歴史が証明しています。過去の戦争の多くは宗教戦争であったことも、それを物語っています。「唯一絶対」などと、こだわるから起きるのです。

 

 「『戦争をしてもいい』という正義など、あるはずがない」と、私は確信しています。お釈迦様は、「天上天下唯我独尊」と言われたそうです。わが命よりも大事な存在など、この世にはありません。例えそれが国だって、天皇だって同じです。

 

 国家は、国民の生命、基本的人権を守るためにあるのであって、「国家のため、命や基本的人権を犠牲にしてもいい」などという発想は、本末転倒の考え方なのです。

 

 人の命を奪う戦争が許されるような正義は、絶対にないと考えます。なぜなら、「人の命より大事なものは、この世にない」からです。「人命」と、「この世に生まれた以上、幸せな一生を送りたいという基本的人権」は、究極の価値です。これより大事なものなどないのです。

 

 どのような正義論を振りかざそうとも、戦争で人の命を奪うことを是認することなど、あり得ないのです。私は、現行憲法が掲げている「基本的人権の保障」と「戦争の放棄」は、表裏一体をなすものだと考えています。

 

 般若心経が「こだわるな」と教え、「正義にもこだわるな」、「正しさにもこだわるな」と教えているのは、「こだわると、本当のことが見えなくなる」と注意しているのです。「こだわると、何が本当に大事なことかを見失ってしまう」と教えているのです。

 

 お釈迦様の教えは、「あきらめ」だと言う方もいますが、「あきらめ」とは「明らめ」で、「本当に大事なことを知ることだ」と教えている人もいます。「般若心経」の「般若」は、「真の知恵」という意味だそうです。この世で一番大事なことは、「人命」と「基本的人権」です。それを見失ってはならないのです。

 

 「正義のためなら、戦争は許される」という考え方は、正義にこだわりすぎた結果、最も大事なことを見失ってしまうから出いくるのです。この世において、「人命」、「基本的人権」に勝る価値など存在しないのです。「正義のため」と称して、国を挙げて人命や人権を奪ってしまう戦争が許されるはずはないのです。

 

 「島」と「人命」では、どちらが大事でしょうか。最高裁判所は、「一人の生命は、全地球よりも重い」と言いました。島一つなど、人命に比べればいかほどのものでしょうか。「島一つ位譲っても、戦争は避けるべきだ」と言われた尊敬する先輩がいます。同感です。

 

 

 〈戦争体験者の言葉の重み〉

 

 このように考えてくると、小沢氏の「正義の戦争より、不正義でも平和がいい」という言葉には、深さと重みがあります。私は、それをずっしりと感じています。小沢氏は、昭和4年(1929年)生まれですから、多感な時期に太平洋戦争(昭和16年~20年)を体験した方です。太平洋戦争を体験した小沢氏が「正義の戦争より、不正義でも平和がいい」と言っていることには、戦争体験者の言葉としての重みがあります。戦争のもたらす惨禍を身を以って体験した者の、心の底にある実感なのです。

 

 戦後70年が経過しました。太平洋戦争を体験した国民は、年々少なくなってきました。いかに高齢化社会と言っても、間もなく戦争の悲惨さを身を以って体験した人はいなくなってしまいます。

 

 私は、昭和17年(1942年)生まれです。終戦時は満3歳でした。戦後の欠食時代を体験しました。身近で、戦争で親を、子を、兄弟を失った人々の悲しみを見てきました。「あの人だって、戦争さえなければ幸せな人生を送れたはずなのに」と涙することが未だにあります。そんな思いを何冊かの本にしたこともあります。

 

 私たち戦中・戦後を体験した者は、再び「軍隊を持つ」とか、「戦争も辞さない」などという輩を許すことはできません。そんな輩は極悪人以下です。そんな輩を生み出してはならないのです。それを止められるのは、国民だけです。

 

 安倍首相は昭和29年(1954年)9月21日生まれ、石破茂・元自由民主党幹事長は昭和32年(1957年)生まれだそうです。戦中・戦後の国民の悲惨な生活を、身を以って体験していない年代です。このような方たちに、戦争の悲惨さを知ってほしいのです。政治の駆け引きに、平和憲法の改正論など持ち出してほしくないのです。
 (拙著「新・憲法の心 第1巻 戦争の放棄(その1)」から一部抜粋)

 
 

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