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 わが国の国政選挙にあって、これまでになく「白紙委任」という言葉が取り沙汰されている。通常国会冒頭に解散を表明した高市早苗首相が、次回衆院選について、自らが総理大臣で良いのかどうかを問う信任投票であるという趣旨を表明したことが、この言葉が示す危惧へとつながったといっていい。信任を得たと彼女がとらえた先に何が起こるのか、今、彼女がこの先に何をもくろんでいるのか、を多くの人が思い浮かべた、ということだ。

 この時期の解散については、旧統一教会との関係など国会での追及をにらみも、自らの支持率の高いうちに、それが目減りする前の今が、選挙での勝算がある、というヨミもあったのではないか、ということも言われている。これにしても、個人への人気を党勢につなげ、政権の安定に、という発想になる。

 いうまでもないが、議会制民主主義における選挙にあっては、政策とそれを実行する政党・政治家が選ばれる対象にはなるが、政治家個人に「全権」を委ねる「包括的信任」ではなく、「監視付き代理」を頼むに過ぎない。もし、そうでないならば、選挙での当選によって、政治家が勘違いしているか、意図的に読み替えているに過ぎない。

 しかし、これは今回の高市首相に限られたものではない。当選後にあたかも「白紙委任」されたかのような政治家が、「信任」を振りかざすかのように、個別の政策に関する民意や異論を踏まえす、暴走する姿をみてこなかったか。むしろ表の賛同を得られやすい政策を、まるで「客寄せパンダ」よろしく選挙で使い、当選してしまえば、さまざまな異論が想定される案件には、熟慮を排するようなやり方は、もはや「手法」として選択されているのではないか、と言いたくなる。

 つまり、常に「白紙委任」という言葉は口にせずとも、多くの政治家は、それを望ましい形として求めているのではないか、と疑いたくなるのだ。その意味では、今回の高市首相の姿勢は、まるで疑われるのを恐れていないかのごとく、あからさまであったというだけだ。

 記者会見で、予算審議を遅らせてまで、このタイミングで解散する大義について問われた彼女は、こう答えている。

「国論を二分するような大胆な政策、改革にも、批判を恐れることなく、果敢に挑戦していくということのためには、どうしても政治の安定も必要ですが、国民の皆様の信任も必要であります。そういった意味から、今回の解散の決断に至りました」

 結果的に「白紙委任」とされてしまう現実に対し、われわれが取り得る対抗策であり、かつ、構造的にそれを構造的に封じ込める「特効薬」は、政策ごとの国民投票の制度化だろう。一定の署名むによって、特定のテーマについて、国民投票が実施でき、その結果に法的拘束力を持たせるものだ。国会を唯一の立法機関とした憲法41条の整合性、ポピュリズムへの傾斜の危険、コスト、権力側の悪用の危険など課題もあり、慎重論もあるが、検討されていいように思う。

 しかし、もっと根本的な問題は、われわれの方にある。国民は、「白紙委任」として通用するという政治家の姿勢によって、有権者としてとてつもなく侮られていることに、十分に自覚的であろうか。それでもにわれわれに選ばれて、選挙に勝ち、「白紙委任」されるだろうという自信を与えているのは他ならない私たち国民だからである。

 高市首相の今回の決断によって、まだ1年余しか働いていない私たちが選んだ代表者は辞めさせられ、新たな選び直しに、およそ700億円が投じられるとされている。その大義が、首相個人の「白紙委任」の覚悟を忍ばせた「信任投票」であったとしても、それが通用するととっているとしか見えないのが、首相の今回の姿勢なのである。

 私たちは、十分に憤るべきだ。対抗策は、まず、ここからである。



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