司法ウオッチ<開かれた司法と市民のための言論サイト>



 政治家をはじめ、政策推進者がよく口にする「国民の理解が得られない」という言葉には、気が付けば、とても欺瞞的なイメージがついてしまったように見えて仕方がない。本来、国民の理解を重視し、国民の意思を忖度していると取れていいはずの、国民が歓迎していい、この言葉が、必ずしもそう受け取れないとすれば、それは取りも直さず、使う側の心底がすっかり見えてしまったから、というほかない。

 一つは、この言葉が極めてご都合主義的に使われてきたことだ。何かできない、あるいは何かしないわけにはいかない弁明として、「国民の理解」が、あたかも民主主義国家における「錦旗」のごとく、登場する。反対論を黙らせ、反論を許さない効果に期待するものであるのは、はっきりしている。

 しかも、不思議なくらい、その中身が争われることがあまりない。本当に「国民の理解が得られない」のか、「得られない」とすれば、それはいかなる条件のもとで、その条件を満たすことは本当にできないのか、など。まさに「錦旗」のごとく、これを持ち出されては黙るしかない、というように。

 それだけに、これを使う政府などは、明らかにこの言葉を、実に都合よく、推進政策を選んで繰り出している観がある。最近、ネット上では、政府が所得制限撤廃や減税といった議論を交わす論法の中に、これを繰り出しているという批判がみられる。そもそも減税が政府の言う通り財源の問題や将来へのツケ回しとなるといったことに「国民が反発する」と決めつけ、減税しないことに「理解が得られない」とはどうしても考えようとはしない、のである。

 そして、もう一つは、こうしたことを最上段で振り被る与党政治家たちが、他の政策で「国民の理解」を常に軸足を置いてきたようにもみえないこともある。「国民の理解」を脇に置き、理解どころか国民の強い反発や異論のある政策を押し通してきたこととは、あまりにも、ちぐはぐであると言われても仕方がない。

 国民の「納得」だとか「理解」とかいう言葉を、彼らは国民の中にある反発や異論を百も承知であるからこそ使う。だが、国民が「納得させられなかった」「理解を得られなかった」から、潔く断念するという場面にほとんど遭遇しない。つまり、この自体、国民の「納得」や「理解」を得るということは、彼らにとって、体のいいポーズ、結果とは関係ない、結論ありきの、ただの「やってる感」アピールということを物語る。

 その同じ口が言う、「国民の理解が得られない」という言葉には、どうしても空々しさを感じてしまう。

 しかし、一方でこれまで彼らが延々とこの言葉の効果を確信し、繰り出してきたことについては、もちろん彼らにそれを確信させてしまった国民や大マスコミにも、責任はある、と思う。政治家たちの「国民の理解」を掲げた努力を額面通り受け取ったり、前記したように果たしてそれが「国民の理解が得られない」ことかを徹底的に追及することをしない。なぜかそこにこだわらない姿勢がなかったか。

 いわゆる「平成の司法改革」にあっても、この言葉しばしば登場した印象がある。とりわけ、司法修習生の給費制廃止問題では、「国民に理解が得られない」という言葉が、給費制維持を求める声に対して、散々浴びせられた。この言葉は、とりわけ税金の使い道に対する国民の反発を想定して(というかそういう描き方として)繰り出されることが多いが、同問題でも例外ではなかった。

 つまり、裁判官、検察官はともかく、大部分が弁護士として民間の事業者になる弁護士に、本来自弁が当然である「職業訓練」に国費を投入するのは、国民が納得しないと。そもそも法曹三者として司法を支える弁護士の役割、それが公平に養成される意味を度外視して、司法修習をあたかも自ら稼ぐことになる弁護士のための「職業訓練」視することの問題性は、もっと議論されてよかった。

 そして、そのことは通り一遍の説明も決め付けでなく、きっちりそれなりの時間をかけで伝えれば、果たしてそこまで国民が反対したり、「理解できない」ことだったろうか。結果として、この政策は一部修正されるが、今でも誤った「改革」として批判されている。これが、当の国民のためになっている、という評価も聞かない。

 弁護士増員政策に絡む競争・淘汰を求める論調のなかでも、増員への慎重論に対し、弁護士を甘やかし、低廉化や良質化を阻害する不当な供給制限のように批判的にとらえ、あたかも「国民」対して「通用しない」といった指摘も度々出された。しかし、明らかに「国民」がそう考えて、求めたものではなく、「改革」よって描かれ、誘導されたものといっていい。

 今にしてみれば、本当に増員が低廉化や良質化につながらないことを国民に伝えられていたならば、どうであったろう。利用者からすれば、無論、弁護士が経済的に恵まれていることを、当然のごとく「甘やかしている」などということにはならず、それが弁護士の経済的安定を崩し、今のようにカネに絡む不祥事発生や公的活動からの離反につながるならば、弁護士の経済的余裕はむしろ安全性担保のために歓迎してもおかしくない、ともいえるのである。

 あえていえば、その意味では、理論的職能集団とされてきた弁護士会ですら、この「改革」の中で、前記のテーマの中で、「国民の理解」や「通用しない論」に徹底的に向き合って、その虚偽性について問い詰めることなく、従属させられてしまったということもできなくない。

 政策推進者から繰り出される「国民の理解」という言葉は、もはやあまりに軽いものになっていると言ってもいいのかもしれない。権力者自ら「国民」を冠した政策や運動は、国民からは要注意だと言う人がいる。それと同様に、私たち自身が、彼らにご都合主義的な「国民」の利用を許していないか、まず、そのことにもっと敏感になるべきである。



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