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 情報をめぐる、大手既存メディアとインターネットに対する、大衆の中の位置付けは、大きく分かれ、今や「分断」という領域に入っているようにさえ感じる。有り体にいえば、大手メディアの流す情報こそが、信頼に値するという確固たる信頼の「岩盤」が、彼らの情報だけ見ていたら、真実には近付けない、あるいは情報を取りこぼす、という形でのネットに対する評価によって、少しずつ崩れ出している、ということである。その大崩れは、どんどん加速化しているようにもみえる。

 これまでいわれてきた大手メディアの圧倒的優位性は、ネット側の非信頼性という弱点に支えられてきた。さんざん言われてきたことは、既存マスメディアが情報を事前にチェックし、取捨するシステムを備えているのに対し、個人が発信できるネット情報にはそれがない。要は、思い込みなど事実でない情報が混在する可能性が極めて高い、ということである。

 「拡散」の点でも指摘されている。ネットが流した情報が拡散されるのは、真実性に必ずしも基づかず、「いいね」や「リツイート」のように、非常に気楽に受け手によって広められ、それがいつしか真実として拡散されてしまう、という見方である。

 よく言われてきたインターネット民の性向は、彼らが自分の望む情報や、自分と考えの近い人の意見に偏って接する、というもので、前記「拡散」の課程は、その自分が望んだり、信じたい情報を確信に変えてしまう、というのである。

 インターネット情報に対するネガティブな捉え方と一体となっている、といっていい「フェイクニュース」や「陰謀論」といった、ある種のレッテルも、こうした大衆のネットを通じた、あたかも人が陥りやすい、注意すべき性向が産み出す誤解の産物という扱いにとれる。もちろん、いくつかの「偽情報」も、これを裏打ちするように列挙されたりもしてきた。

 ここまでで、両者の情報をめぐる優位性について、勝負の決着はついた、と捉えている人が、おそらく現在も多数派だろうと思う。ただ、この正論だけに寄りかかって、それはそれで果たして大丈夫なのか、という大衆の感覚の広がりこそが、冒頭の大崩れを生み出しているとみるべきだろう。

 実は、あえて言えば、大手既存メディアの「権威」が裏打ちしているような信頼感のうえの話を脇におけば、ネット側に対する非信頼性をいう主張は、そのまま打ち返せないことはない。

 大手既存メディアの中で、本当に情報はフェアに精査されているかどうかは確かめられない。大衆が把握しきれない政治的な圧力、忖度の介入はないのか。各メディアの扱いの違いを見ても、ある種の説明のつかない扱いの「傾向」をメディアが説明し切れているとは思えない。様々な政権に近い案件で、大衆はそれを見ている。

 「自分の望む情報や、自分と考えの近い人の意見に偏って接する」という人の性向をインターネット民の、と書いたが、別にそれに限った話ではない。大手メディアの「権威」が大衆の盲信を生み出さないとはいえず、そうなれば、それ以外の情報は、「見なくていい」「見たくない」、まともに取り上げるべきではない、情報になり得る。

 テレビや新聞のニュースで取り上げた情報こそ、もはや自分が信じていい、いわば手に取ることを望む情報であり、おそらくそれが社会の多数派であると考えることで、偏って情報に接することを、結果的に選択していないのか。「フェイクニュース」や「陰謀論」のレッテルは、その危うい盲信に踏み込んでいる大衆に、安心感を与えることになるだろうし、仮に盲信されることが都合がいい意図が介入するのであれば、彼らに有効なものになってしまうかもしれない。

 別にインターネット情報の優位性を擁護したり、それこそ現実的な「フェイクニュース」が生まれる危険性を否定するわけでは毛頭ない。しかし、これまでの政権や官僚が絡んだ案件をはじめ、新型コロナウィルスやワクチン接種、あるいはウクライナ情勢をめぐり、大手メディアの情報の扱いには、フェアに国民に情報を提示し、その判断にゆだねるようなフェアさが欠落した内容が沢山みられ、その「権威」の本性が姿を現した観は否定できない。

 従来からのネット批判だけで、大崩れは止められるのか、そもそもそれが、果たして真実に近づこうとする大衆にとって、どこまでが本当に不利益なことなのか――。情報の位置付けで「分断」し始めている中で、大衆側も、それを改めて考えなければならないところに来ているのではないか。



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