修習専念義務がある司法修習生の「兼業」を許可することや、法科大学院修了後、「5年以内3回」の司法試験の受験回数制限を「5回」にするといった、制限緩和の方向を見え出してきた(法曹養成制度検討会議事務局提出資料・座長私案) 。これらは、法曹養成制度の現実は、司法修習生・志望者の負担の問題として、問題が指摘されてきた制度ではある。
だが、法曹養成の根本的なあり方を考えなければならないという認識を、ここに被せようとすると、一方で、強い違和感を覚えてしまう。それは、なぜ、こうした緩和策に舵を切らなければならなくなっているのかということに関連する。
法曹志望者の減少、法科大学院敬遠。なんとしてもこれにストップをかけたい。つまりは、志望者の「奪還」の方法論として、繰り出されようとしているのが、これらと見ることができる。
合格率低下こそ、敬遠を生む元凶と主張し続ける法科大学院関係者からは、一方で、その数を絞り、いわゆる合格下位校の退場で、合格率を上昇させるという方向も示されている。
ただ、これらに共通するのは、「根本的」ということでは首をかしげたくなるような、一種の見せかけの方策のように思える。違和感は、前記したような緩和策や、母数を調整して合格率を上げるようなやり方は、果たして本当に法曹界が志望者を「奪還」する、彼らが返って来る方策と認められるのかというところにある。
修習専念義務がいままで維持してきた意義は一体何だったのか。勉強に集中するという意味では、「給費制」がなくなった現実問題と、それによって公費を投入しているという理由づけがなくなったことが、緩和の理由に被せられるかもしれないが、それは前提としていいことなのか。まして、修習生への経済的な影響を排すという、もう一つの義務化の意味はどうなるのか。長年堅持してきた制度への扱いとして場当たり的な印象を持つ。回数制限を3回から5回とする、いわば法科大学院修了の「賞味期限」の価値を少しだけ追加しても、それにどのくらい本質的な意味を読みとればいのか。
こうした対策がどのくらい効果があるのか、これで志望者が法曹界を目指すことになるのか、あくまで「強制」が前提となっている法科大学院というプロセスの費用対効果や、その先の弁護士界の経済的な現状からは、疑問視する見方はある。ただ、仮に、これが一時的に志望者数を回復させたとしても、法科大学院という「プロセス」、その先の法曹界を目指す、志望者にとっての「価値」が本質的に回復したとはいえないはずである。そして、いうまでもなく、そのことを見逃せないのは、見せかけの方策は、本質的にこの世界が確保すべき人材を確保するという目的に合致していないととれるからだ。
では、今、何の目的で、そうした方向が示され出しているのか。「プロセス」の維持よりも、法曹界の未来を優先させるならば、まず、そのことのおかしさにわれわれは、まず、気が付く必要がある。